ジッドが「ロシア紀行」のなかで、レニングラードを憂愁にみちた都会と呼んでいるように、この街には滅びを見届けてきた翳(かげ)りのようなものがある。ツァールスコエ・セロに民衆が押し寄せて革命がはじまったことを知っているせいでそう見えるにしても、この街にはたしかに翳(かげ)りのようなものが隠されているのが感じられた。
ある日、私はネフスキー・プロスペクトを歩いている。
あの旧ロシア海軍省から、アレクサンドル・ネフスキー修道院に向かっているもっとも美しい街路だった。
ひろい交差点をわたって、帰宅をいそぐ人たちにまざりながら、ゆっくり歩道を歩きつづける。ここでも、さまざまなロシア小説のヒロインたちとすれ違うのだった。
ナスターシャの美しいまなざしが私に向かって、まっすぐ突き刺さってくる。タチアーナが、よろこびに全身をふるわせて、逢曳きの相手にむかってよく透きとおった声をあげる。ジナイーダの黒いスーツに、もう秋の気配の濃い黄昏の光りが動く。マーシェンカのまわりには靄のようなものがまつわりついて、彼女が恋を失ったばかりだということに気がつく。
ふと足もとに眼を落とすと、ふとい足、細い足、痩せた男のような胸や、まるで樽が歩いているような中年女のでっぷりした腰。まるで、ゴーゴリの民話に出てくる妖女、ウェージマや、地霊、ヴィーのようなおそろしげな女たち。いちようにサンクト・ペテルスブルグの街の顔をつけているのに、近づいて見ると、そうした人びとの隠しおおせない秘密な部分が、次第にはっきり眼についてくる。
それがまた、未知の旅にあるという私の心の揺れを誘うようだった。私の旅は、いつも気ままで、たいした目的もない、とりとめのない小さな街歩きなのである。