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1968年、渋沢龍彦の責任編集で、「血と薔薇」という、エロティシズムを中心にした高級な季刊誌が出た。
その後、2003年、「血と薔薇」の復刻版が「白順社」から出た。そのとき、私は、短いエッセイを書いた。以下、それを再録する。

 

「血と薔薇」のことを語るとすれば、やはり渋沢龍彦の思い出に重なってくる。
その渋沢龍彦を語るとすれば、矢牧一宏、内藤三津子夫妻や、松山俊太郎、種村季弘のことが重なってくる。
はじめてその風貌に接した人々。いずれも名だたる文人であった。といっても、私は誰とも親しかったわけではない。もともと野暮を絵に描いたような男だった。それでも「血と薔薇」の編集会議は、今思い出してもおもしろいものだった。そうそうたる酒豪がそろっているので、それこそ談論風発だった。渋沢龍彦はサド裁判を終わったあとだったが、席上、当時のジャーナリズムにかかわる話題は一
切出なかった。まして文壇を賑わせている人々のことは、誰ひとり口にしなかった。はじめから誰の関心も惹かなかったといえるだろう。
むろん、話柄にこと欠きはしなかった。なかには閨中のことにかかわる艶話もあったが、すべて風流滑稽譚で、皆で笑いころげたものだった。巫山風雨のことを語って、これほど高雅、剽逸な人々がいるのだろうか、と、野暮な私はひたすら感嘆していた。
あるとき、酒がまわるにつれて、座興のひとつとして松山俊太郎が連句を巻くことを提案した。渋沢龍彦を筆頭に、加藤郁也、高橋睦郎という巨星が居並ぶ席だった。だが、このとき、松山俊太郎が私を見てすぐに翻意した。ヘンリー・ミラーなどを翻訳する無風流、おそらく雪月花を知らず連句の作法に通じない愚頓と見たのだろう。私は恥じた。同時にほっとした。どんなに恥をかいたかわからなかったから。まことに筆の道はいとも尊きことにして、無筆の者の心にはものかがざるをうえもなき恥ずかしき事に思うべし。
ただし、今でも惜しい気がする。あのとき列席の人々による連句が試みられていたら「血と薔薇」を飾ったはずである。
渋沢龍彦も矢牧 一宏もすでに白玉楼中の人となった。孤り愴然たる思いがある。
 
 

「血と薔薇」の出発にあたって、渋沢龍彦が声をかけてくれたのは、私の不遇、非才を憐んでくれたのかも知れない。しかし、声をかけてくれたことはうれしかった。
私の「ブランヴィリエ侯爵夫人」という短い評伝は「血と薔薇」に発表するつもりで書いたもので、内藤 三津子さんの尽力で、おなじ「出帆社」から出版されたが、私はこの作品を渋沢龍彦に捧げている。いささかの文学的な敬意をこめたつもりであった。

松山俊太郎氏は病床にあると聞く。遠く離れている身にはいかんともなしがたいが、一日も早いご快癒を祈っている。