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そうこうするうちに、関八州を吹きまくる、あの空ッ風もようようおさまって、春がふたたびやってきた。

あのXXの境内(けいだい)、人ッ気(け)のない閑静な庭先に、枝垂(しだれ)桜がみごとに咲いていたつけ。

これが昔なら、
「湯にでも行って、せいせいしてこよう」
手拭いと、ヌカ袋を引ッつかんで飛び出すところだが。

下町育ちの私は銭湯が好きだった。

ご常連の爺サマ、ご近所の旦那衆は、たいてい二階にめいめい浴衣をあずけてある。
外から銭湯にやってくるなり、浴衣に着替えて、階下の番台に声をかけて、藤の籠に浴衣を入れる。素ッ裸になると、カランの並ぶ横を通って、湯につかる。
十分にぬくもってから、また二階にあがる。

冬ならば、お出花。夏ならば、砂糖水に咽喉をうるおす。さて、居合わせた知り合いの誰彼相手に、将棋の一番でもさして帰るという、悠長な仕組みになっていた。
町内のどら息子などは、半日、一日、湯屋の二階で、のんべんだらりとすごしていた。

私などは、まだ小学校のチビで、母親につれられて女湯に入っていた。昼間ッから、若い女たちが真ッ裸で、顔を見るなり、
「ボーヤ、いいねえ、お母さんといっしょで」
とか、
「おや、ちょっと見ないうちに、こんなに大きくなっちまって」
などと、笑顔の一つもみせてくれるおなご衆もいた。

叔父(私の母、宇免の弟)、勝三郎が、いわゆる零細企業ながら職工の四、五人も使って段ボールの函の製造業をやっていた。(私の父、昌夫が半分出資したので、名前も半分づつで「昌勝商会」という看板を出した。)
そんな職工たちが、仕事を終わって湯屋に行く。小梅橋のすぐ先の銭湯か、源森橋の手前の銭湯で、私もつれて行ってもらうことが多かった。
若い職工たちは、幼い私にはよくわからないことばで、近所の町工場の若い衆としょっちゅう悪所通いの相談をしていた。

「そうかい、すまねえな。だがな、オンブ(背負う)で行くなぁ肩身が狭いや、出し合
いで行こうじゃねえか。ウン? 案内してもらうからおごるッて。そうかい、すまねえな。
じゃ、ナンだ、次はおれがモツってことにしよう。初会(しょかい)からウラカベよ。
そィでもって三度目から、はじめてお馴染みてェことになるから、女郎買いも安かねえや。
XXちゃんなんざ、金にお構いはねえだろうが、ナンだぜ、アンなとこで見え張っちゃ
ぁいけねえ。なるべく安くあげて、おもしろく遊ぶのが道楽の極意とくらぁ。ま、おいら
にまかしときな。湯を出たら、どっかその辺で、一杯(いっぺえ)引ッかけて行こうじゃ
ねえか。エッ、酒が飲めねえ。飲めなくっても、飲んで行くんだ。シラフで出かけるなぁ、
ヤボッてえ(たい)じゃねえか」

幼い私の周囲には、落語に出てくるような人たちがたくさん生きていた。