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 アメリカで見た映画で、いまでも鮮明におぼえているのは、日本映画の「愛のコリーダ」だった。日本で、はじめてファック・シーンが撮影された映画という。
 私は日本人として、この映画の公開にひどい恥ずかしさをおぼえた。ファック・シーンがあったからではない。きわめて程度の低い映画だったからである。

 劇場はほぼ満席だったが、映画の途中で、観客がゾロゾロ席を立って帰って行った。みんな、失望と、やるかたのない怒りを見せていた。ただ、黙って席を立った観客ばかりではない。スクリーンに向かって、大声で、「ジャパニーズ・ガール・キャント・ファック!」と罵声を浴びせる観客が何人もいた。

 私は、おそらくこの映画館にいたほんの数名の日本人のひとりだったはずだが、れいれいしく芸術作品と称してこんな程度の映画を撮った映画監督に対して怒りをおぼえた。
 私は、席を立たなかった。最後に、この映画の終映後、映画監督が挨拶すると聞いていたからである。

 たしかに、映画監督がステージにあらわれた。
 あろうことか、この映画監督は、銀色のラメのような生地で、まるでインド人のような服装で、舞台上手から緞帳の前に出てきて、残った観客に向かって、うやうやしく一礼し、おおげさに合掌してみせた。それも、日本人の行住座臥に、自然におこなう合掌ではなく、まるで横綱の土俵入のように両手を大きく肩の前につき出して、その手を胸もとでパチンと合わせるような大仰な仕種だった。私はあきれた。

 と同時に、この監督に怒りをおぼえた。以来、この監督にいささかも敬意をもたなくなった。名前は大島某という。

 おなじ、エロティックな映画監督でも、小森 白や、神代 辰巳の映画のほうが、大島某の愚作よりはるかにすぐれている。おなじように、エロティックなシーンを含む映画でも、ルイ・マルや、パゾリーニ、ズルリーニの映画のほうがずっと美しい。

 その日、私は別の映画を見に行った。不愉快な気分を癒すために。なんでもいいから映画を見たかった。どんな映画でも、「愛のコリーダ」以下ではないだろう。
 もう、私は何の映画を見たかおぼえていない。しかし、アメリカ人の観客といっしょに笑いながら見た。むろん、たいした映画ではない。しかし、たくさんの笑いが私の気分を明るくしてくれた。それだけでもうれしかった。