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少し長い引用を試みる。

イサク・ディーネセンの短編集「最後の物語」(1957年)I、処女性検査のありようを美しく描いた話がある。

この物語のトポスは、ポルトガルの深い山中にひっそりと建っているカルメル会女子修道院。物語はここに住んで、貴族の結婚の夜に用いられる純白の敷布を織っているなにやらあやしい歯のない女のナレーション。
この敷布を軸に、ディーネセンは、処女性の証明、子を生むことの不安、貴族社会の虚飾、状況を巧みに描いていく。

婚姻の夜、貴族の執事は、宮殿のバルコニーに王女の初夜の敷布を広げて人々に見せながら、作法どおりのラテン語で「ヴィルギネム・エアム・テネムス」(――われらは花嫁が処女であることを宣する)と告げる。

こうした布は――と物語はつづく――けっして洗われることもなければ、再び使われることもない。中央の「ヴァージナル・ブラッド」についた染みは切り取られて、敷地内の農園で布用の亜麻をそだてる女子修道院へもどされ、美しい贈り物用の額に入れられて、修道院の回廊の壁に飾られる。
それぞれの額の下には、小さな金の銘板がつけられている。

 

しかし、長い額の列の真ん中に、ほかのとはちがう布がある。額縁はほかのものに劣らず美しく、重く、そして誇らかに王冠を標した金の銘板があることも変わらない。ただ、この銘板にだけは名前が刻まれておらず、額縁のなかの亜麻布はは隅から隅まで雪の白さで、空白のページ。

 

イサク・ディーネセンの物語で、この空白のページが、大きな、そして深沈とした興味の対象となる。人目を引く形見の品――だが何の? 推量はされず、憶測もない。ディーネセンは、この汚れのない布をどう判断するかを語らず、女子修道院へ巡礼に訪れる貴婦人たちが、その額の前にじっと佇み、どのような思いにふけっているかの手がかりも与えない。

単一の処女の肉体、処女の存在、処女の膣というものはない。疑問はただひとつ――この女性が処女かどうか、どうしたらわかる? 無数の解答がなされてきた。ミョウバン、ハトの血、尿、ミントやハゴロモグサの煎じ薬などで。表、グラフ、臨床写真などで。しかし、幾度それを刻みこもうとしても、どれほど紙にペンを押しつけても変わりなく、わたしたちには永遠に同じ空白のページが残される。

私はこの部分を読んで、心を動かされた。感動したといってよい。
私は、しばらく本を読むのをやめて、ディーネセンのことを考えた。むろん、何も答えはない。ただ、私は「空白のページ」を見つめていたのかも知れない。

*「ヴァージン 処女の文化史」第六章 p.141
ハンナ・プランク著
堤 理華、竹迫 仁子訳