1939年、ドイツ軍がフランスに侵入し、フランスは降伏した。これ以後、フランス演劇の上演は、すべてドイツ占領軍の検閲を受け、上演の許可、不許可がきめられた。
「アテネ劇場」のルイ・ジュヴェは、ジロドゥーの「オンディーヌ」をはじめ、すべての現代劇のレパートリーが上演不許可の処分を受けた。
ドイツ占領軍の検閲官は、「オンディーヌ」のかわりにクライストの「ハイルブロンの少女ケートヘン」の上演を勧告した。ジュヴェは拒否した。このときから、ジュヴェは占領軍のブラックリストに載せられた。
私はこうした事情を評伝「ルイ・ジュヴェ」(第五部、第一章)で書いた。そのとき、評伝には書かなかったが、クライストも読んだのだった。
「ハイルブロンの少女ケートヘン」で登場したカタリーナに興味をもったのも、そのときだった。カタリーナは前途洋々たる女優だった。
カタリーナは、フランスのサラ・ベルナールのような名女優にならなかった。イタリアのエレオノーラ・ドゥーゼのような大女優にもならなかった。
1870年、プロシャ/フランス戦争の勝利で、ウィーンは、パリの位置を奪う。空前の繁栄がやってくる。
だが、その後、ウィーンは、破局的な大不況に見舞われる。自殺が増え絶望、暗鬱な気分がひろがる。
この気分を一掃しようとして、1873年、皇帝、フランツ・ジョゼフは、国立劇場に行幸して観劇。このとき芸術監督のラウベが選んだのは、シェイクスピアの「じゃじゃ馬馴らし」で、20歳のカタリーナ・シュラッツが主演。皇后、エリザベートから「たいへん美しく、私によろこびをあたえました」という言葉を賜った。
これがきっかけで、少女は、なんと、皇帝フランツ・ジョゼフの愛妾になる。
カタリーナ・シュラッツはサラ・ベルナールや、エレオノーラ・ドゥーゼに劣らない才能にめぐまれながら、ついに大女優になれなかった。
(つづく)