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 次の授業のとき、小川 茂久は、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」について質問した。このときも私は緊張していたので、小林 秀雄が何を話したのかおぼえていない。私はフローベールの手紙にあった詩について質問した。
これは、良く覚えている。

 私のあとに久米 亮が質問に立って、
 「最近まで中支で、兵隊をやっておったものでありますが、召集解除になりました。小説を書きたいと思って、大学に入りました。小林先生にお伺いいたします。小説を書くために、必要なことがあるでしょうか。何か、秘訣というか、勉強のコツといったものでもあったら教えていただきたい」
 と聞いた。

 このときの小林 秀雄の答えが、先にあげた細川 半蔵の言葉によく似ていた。

 「小説を書くつもりなら、いつもいろいろなものを見ておくことだ。それをしっかり心にとどめておく。それが経験というものになる。そして、いつでもその記憶を思い出せるようにする。そういう記憶と経験を積んでおけば、何か新しいものにふれたとき、すぐに反応できるようになる。」

 小林 秀雄は、私たちに何をつたえようとしたのだろうか。私はプルーストを連想した。あとになって、小林 秀雄の思想は、アランや、ベルグソンに近かったのではないか、と思った。まさか、このときの小林 秀雄が、寛政の細川 半蔵を思い出していたとは思えない。
 少年の記憶だから、小林 秀雄のことばが正確にどうだったか、おぼえていない。しかし、この考えかたは私の内部にずっしりと残った。

 私の質問に対して、小林 秀雄が答えてくれた内容についても、いつか書くつもり。私は、そのことばを何度も思い出しては自分の世界を作りだしてきたのだった。