太平洋戦争の末期。空襲も激化していたし、戦況は悪化するばかりだった。むろん、大学での授業などあろうはずもない。
昭和19年(1944年)私たちは、いわゆる勤労動員(戦時学徒動員令)で、三菱石油川崎製鉄所の石油精製工場で働いていた。
私たちというのは、小川 茂久、関口 功、仁科 周芳(岩井半四郎)、進 一男、覚正 定夫(柾木 恭介)たちだった。なかには、中国戦線に配属されて、軍曹として復員してから、大学に入った久米 亮のように、すでに三十代に入っていた学生もいたが、ほとんどが二十代の若者で、文学書を、やっと読みはじめたばかりといった連中ばかりだった。
その工場の一室で、小林 秀雄先生が特別に講義をなさることになった。
小林 秀雄ははじめての講義のとき、何か質問はないか、と聞いた。私たちは緊張していたし、私などは小林 秀雄におそれをなしていた。たから誰も質問をしなかった。
小林 秀雄は、
「あ、聞くことがないのか」
といい捨てて、あっさり帰ってしまった。
文学の講義は、先生のレクチュアではなく、生徒たちが先生に質問して、それに先生が答える形式のものなのか。
私は度肝をぬかれた。
あとに残された私たちの間から、ため息のようなどよめきがもれた。
小川 茂久は――せっかく工場まで授業にきてくれた小林 秀雄に何も話をしてもらえなかったことをしきりに残念がっていた。
「中田、この次はきみも何か質問しろよ。おれも質問を用意してくるから」
こうして次の講義のときは、何人かが質問を用意しておくことになった。質問する順番もきめたのだった。
(つづく)