少年時代にスティーヴンスンの「宝島」に夢中になった。
これまでに読んだ作品で、いちばん面白かったものをあげよといわれたら、少年の私は答えを拒否するだろう。いくらでもあげることがてきるから。それでも「宝島」は間違いなくベスト・テンに入るだろう。
そのくせ、その後、スティーヴンスンの作品は読んだが、「宝島」を読み返したことはない。
「宝島」を書いた頃のスティーヴンスンは病身だった。ある山荘に、両親、11歳年上の妻をともなって静養していた。たまたま、妻の連れ子のロイドが、休暇で、この山荘に戻ってきた。
ある雨の午後、スティーヴンスンはロイドと、いっしょに絵を描くことにした。その絵は、「地図にない島」だった。空想の地図だけではなかった。その「島」に繁茂している森林を描いているうちに、その「島」に上陸しようとして入江に姿をみせる帆船(スクーナー)や、「島」に隠された秘宝をめぐってあらそう海賊たちの剣のきらめきを描きはじめた。
スティーヴンスンは、その「島」を「宝島」と命名することにきめたが、絵を描いているうちに、空想がどんどんひろがって行って、「島」に上陸した海賊船の船長、「ジョン・シルヴァー」の姿がはっきりしてきた。
すぐにも、小説を書きはじめたい気もちがしきりに動いたという。
作家は、誰しもこういう瞬間を経験することがあるだろう。私のようにかぎりなく無名に近いもの書きでも、そんな心の昂りを知っている。自分でも思いがけないテーマにぶつかって、一瞬書いてみようか、と心が動く。つぎの瞬間には、まず不可能だろうという抑制が働くことが多いのだが。
スティーヴンスンがまず「島」の地図を描いたことが、私の興味を惹きつけた。
それと、「ジョン・シルヴァー」というキャラクターの設定はどこからきたのか。
ある作家が、あるアイディアを実現してゆくプロセスを想像することも、批評のダイナミックスの一つ。私の関心はそのあたりに集中していた。
(つづく)