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これはもう何度か書いたおぼえがあるのだが――少年時代の私は、架空の島を想像しては紙に描くのが好きだった。

地図にない島。
その島には、山や川があったし、崖が海辺に続いているかと思えば、リヤス式の複雑な海岸線があって、季節風が吹きつけると、海辺に魚の大群が押し寄せたり。小さな島なのに、そこには誰も行ったことのない(つまり、地図上で空白のままになっている極地や、砂漠など)人跡未踏の秘境があったり。

その渚には、ヤシや、火焔樹が、いのちの氾濫を見せているかとおもえば、別の地帯には、狼や、北極熊、キリンが、群れをなして移動していたり。

およそ荒唐無稽な「島」だが、そのなかに小さな都会があって、劇場や映画館があったりする。もっと重要なことは、交通手段であって、一つの都市から、別の都市まで、鉄道が走っている。その沿線には、温泉があるかと思えば、滝や吊り橋、洞窟もある。

この島には、ほとんど誰も住んでいない。したがって、混沌たるカオスから、暗い冥界(エレボス)や、夜(ニュクス)が生まれることはない。にもかかわらず、大気(アイテール)と、昼(ヘーメレー)の世界なのだ。

たあいもない空想の島だったが、少年にとっては、さまざまな空想を思うさま羽ばたかせることができる場所だった。その地図を描いている時間は、自分の日常とは違って、うきうきするような、ディヴェルティスマンの時間だった。

少年の私は、マンガの「冒険ダン吉」から、南 洋一郎(池田 宣政)の少年小説、やがて矢野 龍渓の「浮城物語」、さらには「ロビンソン・クルーソー」や、「宝島」、やがては、ジュール・ヴェルヌ、ハーマン・メルヴィル、マーク・トゥウェンなどを読みふけるようになったのは、ごく自然なことだったと思われる。
(つづく)