暑い夏がつづいていた。
ある日、藤 圭子の訃報を聞いた。(8月21日)
西新宿 の高層マンションから飛び降り自殺した模様。
彼女が死ななければならなかった事情は知らない。知る必要もない。だが、夏に死を選ばなければならなかったことに胸を衝かれた。
藤 圭子と面識はなかった。彼女のファンでもなかったが、テレビの放送で新潟に行ったとき、たまたまいっしょになった、というだけである。
美少女だった。
はじめて、藤 圭子の歌を聞いたのは、「新宿の女」(70年)だった。暗いトーンをもった女の子が出てきた、と思った。時代が暗かったわけではない。むしろ、狂騒の時代と見ていたので、時代の空気に同意しないような藤 圭子の歌は、シャンソンでいえばシャントゥーズ・レアリストの歌のような気がした。
たいていの演歌歌手のコブシや、ファルセットーなどと違って、藤 圭子の特質は、もっと成熟した才能といったものではなかったか。彼女に近いシンガーとしては、ちあきなおみ、梶 芽衣子とおなじ、シャントゥーズ・レアリストに属する。
「さいはての女」や「知らない町で」といった歌は、あてどもなくさすらう女の漂泊のモノローグだったと思う。
少女時代の藤 圭子が、貧しい暮らしをつづけていたことを知った。小さい頃から、目の不自由な母親といっしょに、流しで歌っていたという。幼い頃から、地方巡業をつづけていた。地方巡業といえば聞こえはいいが、ドサまわりだったのだろう。
おそらく人にいえない苦労もあったに違いない。
五木寛之のコメント。
「デビュー・アルバムを聞いたときの衝撃は忘れがたい。「演歌」でもなく、「艶歌」でもなく、間違いなく「怨歌」だと感じた」。
私は、五木寛之論めいたものを書いたことがある。その中で、五木 寛之の、藤 圭子評価については、ほとんどふれなかった。そういう角度から、五木 寛之を論じてゆくのは私にはむずかしかった。
五木 寛之が、藤 圭子の「怨歌」に高い評価をあたえていることは知っていた。五木 寛之が、藤 圭子について、「演歌」でも「艶歌」でもない、「怨歌」だという見方を語っているのを知って共感したことをおぼえている。
藤 圭子は私たちの前から姿を消した。
私たちは、彼女の死とともに多くのものを失ったような気がする。
不謹慎だが、アメリカにいる宇多田 ヒカルは母の死をどう聞いたのか、そんなことを考えた。そして、歌手としての藤 圭子が、もう少し「艶歌」でも「怨歌」でもいいから歌いつづけてくれればよかったのに、と思った。私は、藤 圭子の選んだ死は、ヘミングウェイや、マリリン・モンローの死に近い「困難な死」だと考える。
なぜか、香港のスター、レスリー・チャンの死を連想した。
今はただ彼女の冥福を祈りたい。