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青山 孝志は、1968年(昭和43年)に亡くなっている。享年、42歳。
その年の9月、詩人、諏訪 優編、「青山孝志詩集」(思潮社)が出た。その付録に、私は追悼を書いている。

 

青山孝志が亡くなったと聞いて、暗然たる思いと哀惜の念にとらえられた。
死がわれらを隔てるより前に、青山と私はおたがいに、あまりにも遠く離れてしまったが、かつて青山を知り、彼と文学上の同志だったことを、私は終生忘れないだろう。
戦時中に青山と相知ったが、当時の彼は堀 辰雄に私淑し、プルウスト、コクトオの世界を憧憬していた。あの苛烈な日々、彼があれほど繊細な作品を書きつづけていたことが、現在の私に深い感慨を強いる。
当時、私たちは、彼こそやがて詩人として名をなすであろうことを疑わなかった。
だが、おそらく彼は不遇であった。それにしても詩人における不遇とは何か。もはや蕪雑な措辞しか用いられぬ時代に、なお詩人たる者は、わるびれもせず、傷つきもせず、恐れも抱かぬ人間として生きるだろう。すなわち、不遇とは、詩人にとって意味をなさない。
彼の遺作集は、まぎれもなく詩に生きた青山孝志の魂の美しさをあますことなく物語っている。

 

友人の死を悲しむ思いはわかるが、何ほどのことも語っていない拙劣な文章だった。

つい最近、書斎を整理していて、戦後すぐに、青山 孝志にあてた手紙を見つけた。

自分のハガキを公開するのはおこがましいが、青山は、戦後すぐに、私に映画論めいたエッセイを書かせようとしていたらしい。その思い出が、胸にふきあがってきたので、恥をかえりみず、ここに引用しておく。

 

JULIEN DUVIVIER論は、”La Fin du Jour”を見なければ書けません。坂田(多岐 淳)が編集で、演劇・映画特集だそうですから、それに書きたいと思います。
LOUIS JOUVET論は、書くところが別にありますから。「駿台論叢」のために、「映画俳優としてのLOUIS JOUVET」といふのを書いてもよいのですが。
親愛なる友よ、君の返事をまっております。

 

ひどく粗末な紙質のハガキで、切手がはがれているので日付はわからない。おそらく、1946年1月か、2月と思われる。

当時の私は、大宮市大成に住んでいた。

戦後すぐの私はてあたり次第に映画を見ていた。「旅路の果て」 ”La Fin du Jour”は、戦前(1938年)の作品だが、戦前の日本では公開されず、戦後になって公開されている。むろん、敗戦直後の日本では公開されなかった。
ただ、戦前の日本に輸入されていたことを知っていた私は、ただ、ひたすらこの映画の公開を待っていたのだろう。
ルイ・ジュヴェについて、「書くところが別にある」と書いているのは――戦後すぐに親しくなった野間 宏の紹介で、「大学」という雑誌に発表した「ルイ・ジュヴェに関するノート」という短いエッセイをさす。
このエッセイが――半世紀の後に、私が書いた評伝「ルイ・ジュヴェ」の最初の試みになる。

青山の生涯とおなじだけの42年の歳月をへて、彼のことを思いうかべる。私たちがはじめて文学にめざめた戦時中、そして敗戦直後の日々が、まるで昨日のことのようにあざやかによみがえってくる。

こんなハガキから、私が青山 孝志に、ルイ・ジュヴェのことを語っていたことが想像できる。未決定の将来に向かって歩みはじめようとしている若者の希望と、はるか後年のその実現がどんなにささやかなものだったか。
感慨なきを得ない。