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 青山 孝志は、明治の同級で、私の親友だった。

1945年5月の大空襲で本郷・曙町の邸宅が消失、四国、愛媛県越智郡弓削村に疎開していた。私は知らないのだが、弓削島という島だつたのではないか。
そして、敗戦を迎えた。その10月には家族とともに、北多摩の小平町野中新田に戻っていた。私は、その青山あてに、ハガキを出したのだった。

私の一家は、本所で戦災を受けたあと、渋谷で焼け出されたため、大森・山王の叔父の家にころがり込んでいた。

青山の遺著となった、「青山孝志詩集」の年譜によれば――

昭和一九年(1944年)四月、明治大学文科文芸科、入学。
中田 耕治、久米 亮、小川 茂久、関口 功、能勢山 誠一(梶哲也)、仁科周芳(岩井半四郎)、進 一男氏らと同人誌「試作時代」を、覚正 定夫(柾木恭介)、木村 利治、中田 耕治、小川 茂久、坂田 保夫、関口 功氏らと同人誌「純粋」をはじめた。
つづいて中田氏(前出)と「黒猫」、小川氏(前出)と「陰翳風景」などの同人誌をそれぞれ出す。最初の小説らしい作品として「雪の映る花の如く」を、この「陰翳風景」に発表した。
この頃は、主として堀辰雄に私淑。ジャン・コクトオ、レイモン・ラディゲなどの影響もうけた。
同年11月、戦時学徒動員令により、三菱石油川崎製鉄所に勤労動員されるも、
翌年に入るや健康を害し、徴用を免除さる。

ここにあげられている同人誌「試作時代」、「純粋」、「黒猫」、「陰翳風景」は、じつは印刷物ではない。なにしろ、戦時中は、紙の統制がきびしく、雑誌など出せる状況ではなかった。
だから、れいれいしく同人誌などといえるものではなく――仲間の原稿を集めて、麻ヒモで綴じたものを、回覧しただけだった。
「純粋」は、数人の原稿が集まった日に空襲で焼失した。それでも「黒猫」は、私が2ページ、青山が10ページ、自分でガリ版をきって綴じた小冊子。むろん同人誌の体裁をなしてはいなかった。これに青山 孝志が書いた作品、「少年の手帖」を引用しておく。

くらひ手帖をもう焼いておしまひ
(あろうことか君はそれに詩を書こうとした……)
待ちぼうけを喰わせた友達の、逢ふ時刻を書いた手帖を。
枯草の匂いがするたらう
かば色の、しめった皮のその手帖は。……
他に書いてあるものといへば試験の日課だ。
住所録には男の名が多い、……男の名ばかりじゃないか!
君は若い。
君は美しいとさへ言へる少年だ。
君は驟雨の山麓に望遠鏡なんかを持つのが応はしい
さあ、くらひ手帖を焼いておしまひ、破っておしまひ。
思ひ切り、笑って、
ほら、駄目だな、……笑ってだったら!

1943年(昭和18年)の作品。

堀 辰雄に私淑し、立原 道造、津村 信夫に親しんでいた少年らしい、繊細な詩といえるだろう。
この詩には、少年期のイノセンス、純真さが、ほのかに同性愛を感じさせる。それもユーモラスな感じではなく、もう少し、切迫した、息づかいが感じられる。
(つづく)