(5月4日)の「メモ」――ジョルジュ・シムノンが13歳のときから、じつに1万人の女性と関係したと語ったことに関して。私はただのゴシップではなく、作家とエロスの問題という方向で考えたらしい。当時の私が何を考えたのか、これももうわからない。それでも、エロスを形而上学的にとらえるのではなく、現実の作家の内面的な輪郭に沿って考えようとしたはずである。私は、いつもそういう批評家なのである。
私はシムノンが「1万人の女性と関係した」ことを不道徳と考えない。むしろ、「1万人の(顔のない)女性」のことを考える。
作家が「1万人の女性と関係した」ことを不道徳と考えるならば、その「1万人の女性」もまた不道徳ということになる。世界的に有名な作家を崇拝し、尊敬している女たちが、シムノンと「関係する」ことで、彼の作品に投影することを願ったとしても、それは、不当なことではない。ひょっとすると、それは虚栄心、性的なモラルへの背信ではなく、女のヒロイズムからくる行動だったかも知れない。
かりに、これが老齢の女性作家が、13歳のときから、じつに1万人の男性と関係したと語ったとしたら、私たちは何を考えるか。
私は、女性のファッションが好きだ。だが、彼女たちが、いつもおなじ型にはまろうとすることに――ヘア・スタイル、服装、はてはキャラクターまで、それぞれの時代の流行や、セクシネスのモデルにしたがおうとする傾向に疑問をもっている。
テレビで見たのだが――「ぱみゅぱみゅ」のアメリカ公演に、完全に「ぱみゅぱみゅ」スタイルのアメリカの女の子たちが、(むろん、まだ少数だが)ブロードウェイの路上でダンスを踊っていた。私は、いまや日本の少女アーティストが、ブロードウェイで通用するほどの存在感を見せていることがうれしかったが、同時に、こうした少女のパッケージ化は、あくまでファラシーに過ぎないと考えた。
これは、また、後で考えてみよう。
(つづく)