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書庫にある本、雑誌などを整理している。知りあいの古本屋にきてもらって、引きとってもらうことにしている。私にとっては貴重な資料も多いのだが、外国語の本などは誰も読まないだろう。それでも、とにかく払い出すことにした。
片づけているうちに、昔、書きかけたまま途中で放棄した原稿、下手くそなデッサン、安もののカメラで撮ったスナップショット。自分で作った絵のプリント。そんなものが、ごっそり出てきたが、これまた、思いきって全部焼き捨てることにした。

書きかけたまま放棄した原稿の中に、日記が出てきた。日記というより、ノートに書きとめたメモのごときものである。

有名な作家ならいざ知らず、私のように無名のもの書きが、れいれいしく自分の日記を披露するなど、烏滸の沙汰。だが、35年前のおのれのぶざまな姿をさらけ出して、現在の老残のあわれと比較するのもおもしろい。

いまさら、過去をふり返ってみたところで何も出てこないと承知のうえの所業である。

この「日記」は、1977年5月1日から始まっている。

 1977年5月1日

久しぶりで登山をする。まだ完全に復調したわけではないので奥多摩の楽なハイキングコースを選んだ。午前8時、新宿駅で、吉沢君ほか。新顔として、桜木、飯田、坂牧、島崎、下沢(ネコ)たち。
コースは御嶽から怱岳、岩茸石、黒山、棒ノ嶺。名栗に下りた。帰京、午後8時半。半年ぶりなので疲労したが、精神的には快調。

 

「まだ完全に復調していない」理由は思い出せない。おそらく、3月から4月にかけて外国に旅行したので、帰国後すぐに原稿生活に戻ったり、大学の講義がはじまったせいだろうと思う。

吉沢 正英は、「日経」の映画評のコラムを担当してくれた「日経」の記者。私の数少ない親友だった。この頃の私は、これも親友の安東 つとむ、吉沢君、私の三人で、いつもいっしょに山に登っていた。
三人だけの登山では少しむずかしい山をめざしたが、このときは、私のクラス(大学)にきていた女の子たちといっしょで、初心者向けのハイキングコースを選んだらしい。棒ノ嶺(棒ノ折山)のコースにしたのは、女の子たちがバテた場合、岩茸石から高水に折れて、そのまま軍畑(いくさばた)に下山すればよい。たかだか3時間のコースだったからだろう。そんなことまで考えたはずである。
桜木 三郎は、当時、集英社の編集者。私のクラスにいたが、ずっと後年、「プレイボーイ」の編集を担当した。

下沢 宏美は、その後、吉沢 正英(日経・文化部)の夫人と親しくなった。さらに後年(つまり現在)彼女は書道家になっている。
この「メモ」の記述で、このハイキングがとても楽しかったことを思い出した。

翌日、5月3日の「メモ」――

人間が人間のぎりぎりの底に達することはついにあり得ないだろう。そして、人間は、自分自身の姿を、おのれの獲得する認識のひろがりのうちに見い出すのではない。
竹内(紀吉)君から電話。上野に出てこられないかという。急なことなので、断らざるを得ない。残念。午後、テレビで「舞踏会の手帳」を見る。これで十数回、見たことになる。しかし、またもや、いろいろな「発見」があった。今回は、わざと場面の細部にことさら注意を向けたからだろうか。

竹内 紀吉君も、私の親友だった。