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「カレン」は、演出家、「デレク」(ジャック・ダヴェンポート)から逃げるが、「アイヴィー」は「デレク」と寝てしまう。
こういう男と女の色模様は、芸能界によく見られるふしだらな「関係」に違いないが、このドラマは、主要な登場人物が、それぞれの愛の物語によって傷を受ける。ただし、「芸能人」だから、という暗黙の理解、ないし共感、といった甘やかなものがあるわけでもない。といって、原作者(テレサ・リーベック)が、こうした色模様に冷やかなまなざしをむけているわけでもない。

「あいつらが恋人だったとしても、おれとしては別にどうってことはない。おれの芝居に支障をきたしたりしなければ。」

これが、演出家、「デレク」の基本的な姿勢。

ところが、「デレク」は、アンサンブルの連中には、邪悪 Evil、ワル Jerk、劇壇の「悪の帝王」Dark Lord。はじめて「デレク」の演出を受けた「カレン」は「ヘンタイ」サイコパスという。
ジャック・ダヴェンポートは辣腕の演出家を演じて魅力のある俳優だが、実際のドラマでは、すべてが「デレク」に収斂するほどの「役」なのにさしたる「しどころ」がない。

「マリリン」がスターたり得た社会(芸能界)は――ダリル・F・ザナックの時代だった。ザナックはハリウッドきっての権力者で、「カウチ」(プロデューサーが新人女優をイタダクこと)でも悪辣な人間だった。
「デレク」は自分の芝居で「主役」クラスの女優をモノにする。しかし、ダリル・F・ザナックの「カウチ」ではない。それに、ザナックのような冷酷なドン・ファンではない。ほんらい、彼は自分の「マリリン」を作るために、女を裸にするのとおなじ視線を自分にもそそいでいる。

「デレク」(ジャック・ダヴェンポート)の眼。落ち窪んだ眼の奥底に、芝居を作ってゆく眼と、主役を演じさせる「カレン」と「アイヴィー」のセックスを見据えているまなざし。その網膜に灼きついている孤独のすさまじさ。
このドラマの「主役」のひとりだが――稽古場で、芝居の進行を見ているのと、「アイヴィー」とのセックス・シーン、ワークショップの後に「カレン」を変身させるあたり。いよいよ芝居の初日に、プロデューサー、「アイリーン」(アンジェリカ・ヒューストン)をどなりつけるシーンなど。ジャック・ダヴェンポートは、みごとにこなしている。ただし、役者としてはあまり「しどころ」のない役といっていい。

このザナックのシーンを、作曲家の「トム」(クリスチャン・ボール)がやってみせるが、クリスチャン・ボールという俳優もたいへんな才能の一人。

ワークショップが終わって、芝居がブロードウェイに進出することになったが、ボストンの試演(トライアウト)前の手直しで、「カレン」に、それまでの音楽とまったく異質の曲、新世代の「マリリン」、エロティックな「Touch Me」を歌わせる。

「Beautiful」や、ユダヤの「バル・ミツバ」や、教会の聖歌のキャサリンの歌と違って、サド・マゾヒスティックな強烈なエロティシズムが表現される。(このシーンで、キャサリン・マクフィーの圧倒的な魅力がふき出す。)
「デレク」の「謀叛」は失敗する。

このときから、「カレン」は、もっとタフで、打たれづよく、忍耐づよいキャラクターに「変身」する。