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清純派vs肉体派。
こうしたカテゴライズは、はるかな過去のサイレント映画から連綿と続いている。
たとえば、永遠の清純派、メァリ・ピックフォードvsフラッパー、クララ・ボウ。

どういう時代でも、女優自身、どちらかに属して、みずからステロタイプ化するか、あるいは自分がスターであるという光栄を正当なものにする。

「風と共に去りぬ」のオリヴィア・デ・ハヴィランドvsヴィヴィアン・リー。
「我等が生涯の最良の年」のテレサ・ライトvsヴァジニア・メヨ。

そんな例はいくらでもある。

「SMASH」の魅力は、ひたすら清純派の「カレン」と肉体派の「アイヴィー」のコントラストに収斂してゆく。この二人のコントラストが、「マリリン」の二重性に対応している。まるで、二つの同心円がつながった楕円形のように。

「冬のソナタ」のように、ひたすら男と女の純愛を描くドラマ、あるいは「デスパレートな妻たち」のように、複数の男女の錯綜する不倫な愛を描くだけのドラマよりも、「SMASH」では、「ゲイ」がブロードウェイを牛耳っているという背景もあって、「ジュリア」とチームを組む作曲家「トム」(クリスチャン・ボウル)が同性愛(ゲイ)なので、ドラマのなかで男性同士の関係に焦点があてられる。
「トム」(クリスチャン・ボウル)は、保守的な男性(白人)とセックス・フレンドになる。

しばらく前のアメリカでは、公然たるホモセクシュアル、バイセクシュアルは、社会的に受けいれがたいタブーだった。
「SMASH」では「ゲイ」の人たちの生きかたが、ごく自然な関係として描かれる。

「ゲイ」の人たちは、「関係」ができた当初は、「ノン・ゲイ」の人たちのカップルよりもセックスの頻度が高い。ただし、10年後は、そうした回数の頻度が少なくなる。

ゲイのカップルの場合、自分より相手(パートナー)がより魅力的と誰かに判断される(周囲がそんなふうに見ている、と思う)と、たいていケンカになる。
どちらか一人だけが、他人に関心をもたれたりすると、お互いの連帯感、セックスという「絆」が消えてしまう。
作曲家の「トム」と、母親に「ゲイ」であることをカミングウウトしたばかりの、共和党(リパブリカン)の青年弁護士の場合。「トム」が親しくなる「黒人俳優」が、自分たちの「関係」に潜在的に脅威になると感じて、防衛的に支配力を強めようとする。
「トム」は、はじめのうち、この「黒人俳優」を「ゲイ」と知らない。このあたりの展開がおもしろい。
そして、この「黒人俳優」は、じつは清純派の「カレン」に近い。

ひょっとして――「SMASH」は、清純派の「カレン」と肉体派の「アイヴイー」の(潜在意識的な)ラヴ・ストーリーかも知れない。あるいは、(まったく表面にあらわれないが)レズビアンのラヴストーリーとさえ見える部分がある。