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フィルコの滞在中に、銀座の、ある画廊のパーティーに行った。
私は一介の批評家なので、美術批評の世界を知らなかった。このパーティーで、針生一郎が、私がフィルコの世話を見ていることに感謝のことばをかけてきた。針生 一郎は、「俳優座」の養成所の講師だったし、どういう風の吹きまわしか、「新日本文学」がやっていた文学講座に呼んでくれたことがあった。
針生 一郎まで、私がフィルコの世話を見ていることを知っている。これも、ちょっと驚いた。
この席で、私は、サム・フランシス、カール・アンドレなどに紹介された。

当時の私は、現代美術について何も知らなかった。今だって、ほとんど知らないのだから、お話にならないが、もう少し知識があったら、と残念に思う。
しかし、フィルコを知ったことで、いささかなりとも現代美術に対する眼が開かれたことも間違いない。

フィルコの帰国の日、私は、やはり私が紹介した女の子、能登 光代といっしょに横浜港まで送って行った。

それ以後、フィルコの消息を聞くことがなかった。

はるか後年、思想家、ジュリア・クリステヴァに会う機会があって、私はたまたまフィルコのことを話題にした。そのとき、意外なことを知らされた。
帰国後のフィルコがマリーアと離婚したという。
私の胸にかすかな傷みが走った。