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フィルコは、大阪万博に作品を展示するため夫人マリーアといっしょに来日した。
滞在期間は1週間。4月初旬には帰国する予定だった。
しかし、フィルコ夫妻は、せっかく来日したのだから、東京の美術展を見て歩きたい、と思った。ふつうの旅行者なら、そう思うのも当然だろう。だが、東西の冷戦構造のなかで、外国旅行が許可されない共産圏から例外として出国を許された芸術家だった。
フィルコは、大使館に出頭して、滞在延期を申請した。

フィルコは、海外でも知られていた芸術家だった。たまたま、アメリカの彫刻家を知っていた。この彫刻家に連絡したらしい。その彫刻家は、自分の知っている日本の彫刻家、高橋 清を紹介したのだった。

高橋 清は、日本よりもメキシコで著名な芸術家だった。メキシコ・オリンピックが開催されたとき、マラソン・コースの沿道に、世界的な彫刻家、十数名が彫刻を建てたが、日本人として高橋 清が選ばれている。
フィルコは、高橋 清の家に泊めてもらえないかと相談したのだった。だが、この70年当時、高橋 清はメキシコから帰国したばかりで、アトリエを新築中だった。フィルコの希望に添える状況ではなかった。
そこで、高橋 清は、私に事情をつたえて、フィルコ夫妻を泊めてやってほしい、とつたえてきた。

私はよろこんでひき受けた。

こうして、思いがけないことから、フィルコ夫妻を自宅でもてなすことになった。

マリーアは、あとで知ったのだがハンガリー人で、カトリック教徒だった。夫のフィルコの才能を信じて、いわば内助の功を身につけたような女性だった。いつもひかえめで、夫を立てようとしている。育ちのよさがそのまま人柄のよさに重なっている。
フィルコは、英語をしゃべらないので、私はもっぱらフランス語でしゃべった。マリーアは、英語を少ししゃべったが、フランス語はしゃべらない。
我が家の言語体系はときならぬ大混乱に落ち入った。

このときから、毎日、コメデイの連続だった。    (つづく)