幼年時代に、はじめて出会った本が何だったのか、現在の私には想像もつかない。
亡くなった母、宇免から聞いたことがあるのだが、巌谷 小波の童話の絵本が好きだったという。その童話に出てくる犬が好きで、その犬を飼ってくれとせがんだらしい。その童話がどういう内容だったか、おぼえていない。
私の年代の人なら、たいてい「幼年クラブ」か「少年倶楽部」の読者で、吉川 英治や、高垣 眸、南 洋一郎といった作家の連載に夢中になった記憶があるに違いない。私の場合はやはり乱読で、山中 峯太郎から佐々木 邦まで、手あたり次第に読みふけった。
はじめて買った本なら、よくおぼえている。つまり、自分のおこづかいをためて買った本で、両親が買ってくれた本ではなく、自分が読みたくて買った本である。むろん、高い値段の本を買ったわけではない。
キップリングの「ジャングル・ブック」だった。じつは、いっしょに「ロビンソン・クルーソー」を買ったのだが、小学生にはひどくむずかしい本だった。そのため、デフォーは読まずに、キップリングを読んだ。
私は、密林に住んでいる少年の冒険に胸をおどらせた。こんなに面白い本を読んだことがなかった。
キップリングはそれほど好きな作家ではないが、私は、今でも自分が、昂揚と挫折にみちた人生の密林に生きているような気がしている。
これは、「子どものとき、この本に出会った」(鳥越 信・編/1992年12月刊)に書いた短いエッセイ。
もともとは、「子どもの本」という雑誌の巻頭の随筆で、私のほかに111名の人が、幼い日に出会った本のことを書いている。
「ジャングル・ブック」をあげていたのは、さだ・まさし、動物園の中川 志郎。
「ロビンソン・クルーソー」をあげていたのは、作家の庄野 潤三、坪田 譲治、将棋の内藤 国雄の三人。
それぞれのエッセイに、編者の注がついていた。
中田さんがはじめて買われた本は、価格の面から考えても春陽堂少年文庫69巻の「ジャングル・ブック」(小島 政二郎訳 1933年)ではないかと思われますが、モーグリの話三編を合わせた「狼少年」の他に、マングースの話「リッキ・チッキ・テビー」、海を舞台にし「しろあざらし」が収められています。
とあった。
私が読んだのは、残念ながら小島 政二郎訳ではなかった。
岩波文庫から出た中村 為治訳(1937年)である。
もう少しあとになって――沢田 謙治の「エジソン伝」(新潮文庫)を買ってきた。この本もおもしろかった。とくに少年時代のエジソンにあこがれた。それと同時に、小説ではないジャンルにはじめて関心をもった。
後年の私が翻訳をしたり評伝を書くようになった遠因は、少年時代にこの本を読んだおかげかも知れない。