五十代の句も少ない。
転寝(うたたね)の夢には長し五十年 (第18編)
人五十 天から着せる頭巾哉 (第14編)
五十年 能く納りし無筆なり (第6編)
五十を越すと 殖る 毒断 (第14編)
この程度しか見当たらない。
ここには「松風は老行く坂の這入口」どころではない、あきらめ、または、孤独感がただよっているような気がする。あえて言えば、社会的に孤独な生活を強いられるか、実質的に、性的なコンタクトから疎外されている老人の姿がうかびあがってくる。
現在の老人にとって、人生はもはやスタティックなものでさえもない。老人は、自分の住む町の空間、いかなる場所にもむすびついていない。江戸のご隠居さんの盆栽、あるいは朝顔などの栽培には、何か別の「意味」がひそんではいなかったか。
「武玉川」には60代、70代の世界は、まったくない。80代になると、(これも特徴的に見えるのだが)年齢が特定されてくる。
八十七は 欲の出る年 (第14編)
八十七も なぶらるる年 (第14編)
八十七は 手をあてる年 (第14編)
八十八は うま過ぎた年 (第14編)
八十八の耳に 毛がはへ (第14編)
80代になって、なぜ年齢が特定されるのか。87歳という「措定」は、おそらく米寿という観念が作用しているせいだろうと思う。しかし、「八十八の耳に毛が生える」というのは、生理的な現象としてはわかるのだが、実質はどういう意味なのか。
90代の句は、わずかに、
九十九の人は 大かた口ばかり (第14編)
九十九は 嘘を冬瓜の咲て見せ (第18編)
これしか見つからなかった。
ところで、私が身につまされた一句は、(第16編)の
貧乏によく生きた八十
貧乏作家がいまさら「武玉川」を読み直す必要なんてないよなあ。(笑)