芭蕉を弟子たちが翁と呼んだのは、芭蕉、37歳の頃という。芭蕉だから、翁と呼んでも恰好がつくが、今の30代の作家を翁と呼んだら、どうなるか。(笑)
芭蕉は、伊勢への旅で、弟子が、
師の桜 昔拾はん 木葉哉
と詠んだのに対して、
薄(すすき)に霜の 髭(ひげ)四十一
と付けた。41歳で、ひげに白いものが見えてきたという意味だろう。
これが、「誹諧武玉川」では、
四十ほど はしたな年はなかりけり (第9編)
まだ年も 四十で居れば 面白き (第14編)
四十から 心の猿に毛がふゑる (第5編)
いへばいふ 四十はいまだ 花の春 (第9編)
正月が 四十を越せば飛で来る (第6編)
うつくしい女の四十 物すごさ (第15編)
四十にて 握拳のありがたさ (第10編)
これが「武玉川」に詠まれている四十代である。
つづく五十代の句は少ない。六十代、七十代はまったく言及がない。
ここで、私が考えるのは――江戸の庶民たちは、職業の違い、成熟期に入った年齢も、都市と農村の区別もなく、すべて年代でひとくくりにしていたということ。
かんたんにいえば、女は40代で終わり、60代、70代の男は、はじめから揶揄や嘲笑の対象でさえなくて、まるっきり存在していない、ということではないか。
「四十にて 握拳のありがたさ」などと笑ってはいられない。
(つづく)