私が、サイレント映画のスターたちに関心をもちはじめたのは、ジャック・フィニーの「マリオンの壁」(福島 正実訳/1973年)を読み直したからである。
これは福島 正実の仕事でも、すぐれたものの一つ。内容は、サイレント映画のフィルム収集家の話なのだが、ジャック・フィニーらしい「幽霊小説」といってもいい。
冒頭に、スターだった人々の名前を列挙して、最後に――
その他、過去、現在、そして未来の何千人もの映画人たちに 愛をこめて
という献辞が添えられている。
私がサイレント映画の女優たちのことを書きはじめたのは、ハリウッドの裏面史といったものを書くことが目的ではなかった。私なりに、「過去の映画人たちに、愛をこめて」何か書きたかったからである。
これまで私が書きつづけてきたサイレント映画の女優たちをあげておく。ただし、最近のものだけ。
(1)アイリーン・リッチ (2)エスリン・クレア
(3)マーサ・マンスフィールド (4)ナタリー・ジョイス
(5)メァリー・ノーラン (6)シャーリー・テンプル
(7)ビリー・バーク
今の映画ファンも、シャーリー・テンプルぐらいは知っているだろうか。ほかの女優さんたちは、もう誰も知らないだろう。
たとえば、マーサ・マンスフィールドは、舞台女優としてかなりすぐれた女優だったが、映画では成功せず、さらにスキャンダルにまき込まれた。私たちもグラフィックなどで見たことがある、例のHollywood という大看板の上に登って投身自殺を遂げた悲劇的な女優。
少女時代のベテイ・ディヴイスが、マーサのイプセン劇を見て、自分も女優になろうと決心したという。(「ベテイ・ディヴイス自伝」に出てくる。)
私はなぜこんな女優たちについて書いておくのか。それは「映画史上に残る作品に出た女優でなければ、取り上げるに値しない」などということはないからである。(これについても、直ぐ近く書くつもり。)
たいていの国の少年少女は自分が大人のように強くなれるのだろうか、と考える。アメリカの少年少女は、これに加えて、はたして自分は両親の愛情をつなぎとめていられるのだろうか、いつまでつなぎとめていられるのだろうか、と考えるという。
こういう「観点」を、私は――勝手に自分流に展開させる。そんなことも――映画女優として成功しながら、実人生ではさまざまな困難にぶつかって挫折してしまう女たちのことを書くようになった。
今月は、ビビ・ダニエルズのことを書いた。(去年の冬、川村 正美からもらったネコに「ビビ」という名前をつけた。これについても、そのうちに書く予定。)
久しぶりで「コージー・トーク」を再開したが、ついつい長く書きすぎる。
しばらくブログを書かなかったので、書きたいことがたくさんある。つい、長く書きすぎて、「均衡を失って」しまった。やはり、文字の飲(もんじのいん)を忘れたせいだろう。ボケたなあ。(笑)