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父の昌夫のことを思い出した。
父は、正直で、上にバカがつくような真面目な男だった。少年時代に実父(私の祖父)が早世したため、実母(私の祖母)の手を離れ、イギリス人の家庭で育てられた。
イギリス人の家庭で育てられたというと、恵まれた境遇と思われるかも知れないが、本人にとっては不幸だったと思われる。

少年時代、まだ実父(私の祖父)が在世中に、昌夫は、晩春から初秋まで、毎日のように水泳の練習に出かけた。明治40年代の少年たちは、朝のうちに学校をすませて、炎天下を歩いて、隅田川の遊泳場にかよったらしい。

その頃の隅田川は、シラウオがとれたほど水が綺麗だった。中流に船をうかべて、川水でお茶会をするほど流れが澄んでいた。夏ともなれば、たくさんの遊泳場が開かれる。

当時の水泳は、いろいろな流派があった。

厩橋の向こう河岸に、山敷向井流。
両国橋ちかくに、伊東、土屋、大塚、鈴木の向井流の各派。
荒谷の水府流、太田派。
その少し下手、浜町河岸に、永田の向井流。
ここに、水府流、太田派の遊泳場があった。昌夫が水泳の練習に出かけたのは、ここの遊泳場だった。

こうした水練場には、それぞれの定紋(じょうもん)を染め抜いた大きなまん幕が張りめぐらされていたという。
この水練場では、夏のあいだ、二、三人の者が泊まり番をしていた。この連中は、朝、火をおこして飯を炊く。一人が川向こうの安宅河岸に泳いでわたる。そこで、シジミをしゃくって、また泳いで戻る。だから、朝はシジミのミソ汁ということになっていた。

水練場には、厠がなかったので、毎朝、川向こうのアシの茂みまで泳いて行って用を足した。

昌夫は、太田派の水練でいろいろな泳ぎ方を身につけた。

少年時代の私は、よく父にプールにつれて行かれた。それはいいのだが、父が泳ぎはじめると、プールにいる人たちがみんな水泳をやめるのだった。はじめは誰も気がつかないのだが、父の泳法がまるっきり違うので、プールサイドから見物するのだった。

昌夫の得意は、二重伸(ふたえのし)、小抜手(こぬきて)といった泳ぎ方で、プールの底を蹴伸(けのし)という潜水泳法で泳いだり、右手を枕に体と左足を水に浮かせ、左手と右足だけで泳ぐ。とれも、その頃(昭和7、8年代)でさえ見たこともない泳法ばかりだった。

ようするに、日本古来の武道に根ざした水泳である。父は立ち泳ぎのまま、筆で手紙を書いたり、胸から上を水中から出して諸手(もろて)で槍や刀を使う端技(はわざ)も、できるといっていたが、子どもの私は、父がそんな泳ぎを披露すればみんなが見物すると思うだけで恥ずかしかった。

私はごく初歩的なクロール、平泳ぎがやっとで、とても泳げるとはいえない。
夏になっても、水泳に関心がなかった。