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私の父、昌夫は、少年時代にイギリス人の家庭でそだてられた。そして、生涯の大部分、外資系の会社に勤めていた。太平洋戦争が勃発直前、外国資産が凍結されたとき、父は徴用されて、「石油公団」に移り、横浜の小さな造船所で、陸軍の上陸作戦用舟艇のエンジンの製造にあたった。戦後、しばらくしてアメリカ資本の食料輸入の企業に就職した。

そんな経歴のせいか、父はイギリスふうの生活習慣を身につけていた。
戦前の1930年代当時の、ふつうの中流家庭の和食中心の食事と、父の食事はどこか違っていた。

朝食は、だいたいポリッジにきまっていた。オートミールとおもえばいい。
私の祖母はオートミールが大嫌いで、あんなネコのヘドみたいなものが、よく食べられるものだといっていた。私も少年時代にはオートミールが嫌いだった。

トーストも出されるが、これも、今のようにあたたかいパンではなく、冷たいパンに、バタ、あるいはマーマレードをぬって食べる。
それに、半熟のタマゴ。これが、かならず食卓に出る。
ほかに、ゆでたホーレンソウ、ベーコン、それに、トマト。
飲みものはティーときまっていた。(ただし、チョコレートを飲む。)

その後、私たちは下町の本所に住むことになったが、戦争で食生活は激変した。

戦後の大混乱のなかで、戦後のはげしいインフレーションと、ひどい食料難が襲いかかってきた。この冬だけで、数百万の餓死者が出ると予想された時期だった。
宮城(いまの皇居)前で空前の大デモがあり、「米よこせデモ」と呼ばれた。日本の深刻な食料不足の視察に、フーバー元大統領が緊急に来日するといった時代だった。

当時の厚生省が、日本人の栄養状態を緊急に調査した。
この調査で、東京都内から十数人が選ばれたらしい。父は、栄養失調の日本人のサンプルに選ばれたのだった。外国資本がまだ日本に戻ってくる前で、父は失業していた。父は、連日、(厳密なカロリー計算の上で)一定量の食料を与えられて、連日、肉体の変化を調べられたのだった。
お父さんが選ばれたのなら、おれたちも「日本人の栄養失調」の代表だよ。私たちはそんな冗談をいって笑いあった。せいぜい笑うしかないあわれな敗戦国民だったが。(笑)

はるか後年、グレアム・グリーンの最後の作品においしいポリッジの描写が出てきたので、戦前の父を思い出してなつかしかった。

今の私は、父とおなじように、毎朝、オートミール、メダマ焼きを作って、ティータイムに、自己流でイングリッシュ・マフィンを焼いて食べている。