あるとき、私の娘が訳したアメリカの小説のオビに常盤君はこんな推薦文を書いてくれた。(彼が直木賞を受けて、一流作家になった頃だろう。)
リタ・マエ・ブラウンは、私も読んでみたいと思っていた。それで、どんな小説かと聞いてみた。レズビアンの小説よ、だけど、カラッとした小説。こともなげにそう答えたのは、中田えりかさんである。私の記憶にある、この小説の訳者は、目の大きな、実に可愛らしいお嬢さんだった。今は、美しい健康な若い女である。この変わった(しかし、そんなに変わっていない)小説を中田えりかさんの訳で読めるとは。
もはや、茫々たる過去である。
しばらくして、私たちはお互いにまったく会うことがなくなった。お互いに話すに話せぬ地獄を見つづけていたせいかも知れない。
最後に、常盤 新平に会ったのはいつだったのか。
偶然、乗りあわせた電車のなかで常盤 新平に会った。
彼がすわっていたシートの前に私が立って、
「常盤君」
と声をかけた。私が前に立っているので驚いたらしい。あわてて、席をゆずろうとした。
「いいんだよ、すぐ下りるから」
そんなやりとりだけで、お互いの距離はまったくなくなっていた。
「今、何をしていらっしゃるんですか」彼が訊いた。
「ルイ・ジュヴェの評伝みたいなものを書いているんだよ」
それだけで別れた。
若き日の私が、ルイ・ジュヴェにつよい関心をもっていたことは「遠いアメリカ」にも出てくる。だが、これまた茫々たる過去のことになった。
お互いの共通の友人たち、西島 大、若城 希伊子、藤田 稔雄、鈴木 八郎たちも、ことごとく鬼籍に移った。そして今、私は若き日の友人、常盤 新平を失った。もはや言葉もない。だが、はるかな歳月を隔てて、「遠いアメリカ」の思い出は、かけがえのないものとして私の胸に生きている。
ありがとう、常盤 新平君。きみと親しくなったことは、私にとってかけがえのないものになっている。
ときは今 語りつくせぬ桜かな