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ある日、常盤 新平が遊びにきたとき、私はこんなものを見せてやった。

戯れに歌える
「裁くのは俺だ」と私立探偵の
行く手は「人の死に行く道」
「ヴィア・フラミニアの女」を腕に
互いに交わす「死の接吻」

「地獄の椅子」に腰かける勇気を
「持つこと持たぬこと」
胸にさわめく「春の奔流」

とかなんとかいったって、金がめあての
「ポットボイラー」
「みんなわが子」のためなれど、
翻訳稼業のどんじりにひかえし野郎の

めざすは遙か「宇宙島に行く」
いっそこのまま「消えたロケット」
中田耕治の、夢は虚空をかけめぐる

常盤君はニヤニヤ笑っていた。

私たちは毎日のように会っていた。なにしろ、お互いに暇だけはたっぷりあったから。
当時、彼は台東区の竹町に住んでいた。その頃のハガキに、

 

毎日、映画ばかり観ています。暗くなったので、わざわざ火を起こすまでもないと、自炊生活を止めて、日中は外出。夜は寝床の中でいろんな事をします。

この頃、私は、ある小劇団の文芸部に入った。ここで、はじめて芝居の世界にかかわることになったのだが、つづいて、ある劇団の俳優養成所の講師になった。ここで講義を続けた時期に、演出を始めた。
そのとき、私のクラスに、仲代 達也、平 幹二郎、昨年亡くなった佐藤 慶たちがいた。女優のタマゴたちのなかに、「遠いアメリカ」に出てくる「椙枝」がいた。
ある日、常盤君に「椙枝」を紹介したのは私だった。

やがて、彼は戸塚に移り住むことになる。その頃のハガキに、

小生、この度表記に移転しました。西日のよくあたる暑い家です。駅から歩いて三分ぐらいで近くには本屋、映画館、喫茶店、のみや、一杯あります。

と書いてきた。「遠いアメリカ」では、

電車をおりると、駅前のガード下まで急ぎ足で行く。パチンコ屋から、ターミー・ターミー・アイ・ラヴ・ユー・ソーというデビー・レイノルズの切ない、かすれた声が聞こえてくる。
巴館にはいると、客は一人もいない。重吉が七、八人で満員になる小さなこの鮨屋に来るようになって、二年になる。いつも椙枝がいっしょである。はっきりとおぼえていないが、椙枝を知ってまもないころ、二人とも空腹を感じて、たまたま巴館にはいったのかもしれない。

と書いている。
その二年間、私は「重吉」と「椙枝」の愛の行方を近くで見守ってきたのだった。それは喜びにみちた燕約鶯期というべき時期だったが、常盤君にとっては、ある意味ではつらい時期だったにちがいない。
その頃の常盤は、新婚の私の家によく遊びにきた。そして、帰りの電車がなくなって、そのまま風呂に入って、泊まった。お互いに話はいくらでもあったし、なによりも暇だったから。常盤君も食いつめてころがり込んだというのがほんとうだろう。
(つづく)