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「遠いアメリカ」に、最初に「遠山さん」が出てくるシーン。

「ペイパーバックを読んでいて眠くなったら、どうすればよろしいでしょうか」
と重吉は師匠の遠山さんにきいてみたことがある。
「さっさと眠ればいいじゃないか。きみ、人生って長いんだよ」
と重吉とは年齢が四つしか違わない遠山さんは明快に答えている。

戦後の混乱のなかで、焼け跡の銀座に闇市ができはじめたのは1945年9月だった。アメリカ軍が日本に上陸した直後の銀座だった。私は、このときはじめてペイパーバックなるものを見たのだった。
仙台にいた常盤君が、戦後のこの時期の銀座の状況を知っているはずもない。

神保町の近く、「神田日活」という映画館があった。その先、5メートルばかり離れた狭い路地に、ゴザをひろげて古本を並べているオジサンがいた。
白髯をたくわえた老人で、私ははじめてペイパーバックを買って読んだ。このとき、私が手にしたのは、ダシール・ハメットと、ウィリアム・サローヤンだった。むろん、当時の私の語学力では歯が立つはずもなかった。
このときから、私はそれこそ手あたり次第に、アメリカの小説を読みつづけた。

「遠いアメリカ」で、「重吉」がペイパーバックを読みふけっていた時期は、やや遅れて1955年と推定できる。
恋人の「椙枝」といっしょに映画を見る。
「マリリン・モンローがとてもよかったわ。不思議な女優さん」
と椙枝が重吉にいう。このとき、椙枝は20歳。重吉は24歳。
ふたりは、有楽町の映画館で「七年目の浮気」を見たあと、銀座のほうにぶらぶらあるいている。

「七年目の浮気」は、1955年11月1日に公開されている。
私は、その後、マリリン・モンローについて、日本でははじめてのモノグラフィーを書くことになるのだが、その頃(1955年)は、マリリン・モンローについて自分が何かを書くことになろうなどとは、まったく考えもしなかった。
小説の中で、「重吉」の恋人として登場する「椙枝」は、1960年代、「俳優座養成所」で私のクラスにいた若い「女優のタマゴ」で、「ジャミ」というあだ名で呼ばれていた。
「ジャミ」(小説の中の「椙枝」)が――「不思議な女優さん」と語っていることばがあらためて胸に響いた。

「遠いアメリカ」には書かれていないのだが――「椙枝」が「重吉」の恋人になる前に、私は、ある劇団で、まだ無名の「椙枝」を起用したのだった。私の演出は成功とはいえなかったが、「椙枝」という「不思議な女優さん」の魅力は、ある程度まで引き出せたと思っている。

「遠いアメリカ」に書かれているのは――常盤君の青春だが、同時に、私自身の、おなじように「デスパレート」な生きかたではなかったか。

私は戦後すぐにもの書きとして出発したが、偶然のことから翻訳をするようになった。
そのあたりの事情は、宮田 昇の「新編 戦後翻訳風雲録」(みすず書房/2007年刊)に書かれているとおり。私の名前はチラッと出てくるだけだが、若き日の私が「ハヤカワ・ミステリ」の出発にかかわったことは間違いない。

この時期、私の友人たちには、福島 正美、都筑 道夫がいた。少し、先輩には、田村 隆一、北村 太郎などがいた。
当時、私をふくめて、福島 正美、都筑 道夫はきそってペイパーバックを読んでいた。私はアメリカの作家たち、戦前から戦後のハードボイルド系のミステリーを読みつづけていた。福島 正美はイギリスのミステリー、そして、まだほとんど人の関心を呼ばなかったSFを、都筑 道夫はミステリーからSFというふうに、それぞれの嗜好は違っていたが。
私も常盤 新平も、それこそ手あたり次第にペイパーバックを読みつづけていた。
(つづく)