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睡眠中は誰でも夢を見るが、眼がさめた時は忘れていることが多いという。もともと私は夢を見ても、まったくおぼえていないタイプなのだが。
ところが、どういうものか、最近になって夢を見るようになった。自分でも、かなり変わってきたような気がする。もっとも、ヤキがまわったのかも知れないな。

ある日、どこかで私は、中年のアメリカ人女性と会っている。どこだろう? アメリカではない。私は、まだ30代のもの書き。こちらは相手のことをかなりよく知っているのだが、相手は私のことを知らない。なにしろ、かぎりなく無名に近いのだから。しかし、一瞬、私はドキッとした。え、どうして彼女が?
私が見かけた相手はハリウッドの女優さん。ただし、二流どころのスターである。
美人ではない。ハテ、このおばさん、誰だっけ? ちょっと思い出せない。そのうちに、私は彼女に接近して話をしている。

「あなたが初めて出た映画を見ています」と私がいう。
相手はぼんやりした顔になる。そんな映画を見ているはずがないと思って。
「『市民ケーン』でしたね」
かすかな驚きが彼女の顔をかすめる。
「あなた、いくつだったの?」
「あの映画を見たの戦後ですが」

私は相手の顔をよく見る。どこかで見た顔なのだが、別に美人ではない。だが、このおばさん、誰だろう? どうしても思い出せない。そのうちに、私は彼女と別れて歩いている。

昨夜、こんな夢を見た。どうしてこんな夢を見たのか。どうもへんな夢だなあ。
そこで夢に出てきた場所を考えているうちに、40年も昔、ジュネーヴの駅で、現実にこの女優さんを見かけたことを思い出した。
ジュネーヴの駅は閑散としていた。たまたま通りかかった乗客も誰ひとり彼女に気がついた様子はない。おそらく、この程度の女優では、ヨーロッパでは知られていなかったに違いない。

私が、はじめてこの女優さんを見たのは、クローデット・コルベール主演の「君去りし後」(ジョン・クロムウェル監督)がはじめてだった。
当時、「風と共に去りぬ」が公開されたばかりで、この映画のクローデット・コルベールも、いっしょに出たシャーリー・テンプルも、ジョゼフ・コットンもまったく評判にならなかった。
やっと、思い出した。
アグニス・ムアヘッド!

アグニスが「市民ケーン」に出たのは、オーソン・ウェルズのやっていた「マーキュリー劇団」の女優だったから。つづいて「偉大なるアンバーソン一家」にも出ていた。
眼がさめてから――夢の中の女優さんがアグニスと思い当たったときのうれしさを思い出して私は笑った。幸福な気分だった。どうして、こんな夢を見たのか。
後年、日本のテレビで「奥様は魔女」のシリーズが放送されたし、私はアグニス・ムアヘッドの出た映画をかなり見ていた。

なぁんだ、きみはアグニス・ムアヘッドだったのか!

私は、現実にアグニス・ムアヘッドと話をしたわけではない。だから、夢のなかの会話はまったくの虚構にすぎない。

その後、私はパリに飛んだ。そして、パリを歩きまわっているあいだに、ダニエル・ダリューを見かけた。すごくりっぱな車に乗っていたから、誰だろう? そんな眼でみたとたん、ダニエル・ダリューと眼があった。
このときこそ、一瞬ドキッとした。いや、そんなものではなかった。不意に時間がとまって、私のまわりに何が異様なものが雪崩れ落ちてきたような気がした。信じられないものを見たと思った。

ダニエル・ダリューは私を見た。車はたちまち坂の上に走り去った。

私の夢に、ダニエル・ダリューが出てきたことはない。
アグニスではなく、ダニエル・ダリューが夢に出てくれればいいのに!(笑)