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中村 俊輔の「真説 真杉静枝」は、真杉 静枝という、昭和期の女流作家の生涯を「その書かれた作品によって評価」しようとした一種の研究といってよい。

真杉静枝は、1905~1955年。福井県生まれ。大阪で新聞記者をしていたが、当時の大作家、武者小路 実篤と知りあい、その推輓によって作家になった。(推輓というべきかどうか私は知らない。)
当時の女流作家のなかでも奔放な生活を送ったひとりで、有名な作家、詩人たちを相手にさまざまな恋愛遍歴をつづけた。戦後は、林 芙美子、平林 たい子、円地 文子などとともに、流行作家になった。
私は真杉 静枝に関心がないので、ほとんど読んだことがない。
しかし、中村 俊輔の「真説 真杉静枝」を読んで、はじめてこの女流作家の「あはれ」が理解できるような気がした。

それは、さておき。

庄司 肇は、中村 俊輔にむかって、「評価するに値しない作品しか残さなかった真杉 静枝を取り上げるのは無駄である」と諭した、という。
私なら余計なお世話だと反発するだろう。
低い評価しか与えられない作品しか残さなかった作家を取り上げるのは無駄であるというなら、まだしも話はわかる。だが、評価するに値しない作品しか残さなかった作家などといういいかたに批評家として傲慢が感じられないか。
中村 俊輔はおだやかに、庄司 肇は「調べるに相応しい作家の名を数人告げた」という。ここでも、私はため息が出た。調べるに相応しい作家の名をあげたら、とても数人ではすまない。

庄司 肇は、いつも狭い文壇のことばかり考えていたから、「調べるに相応しい作家の名を数人」しかあげなかったのかも知れない。
たとえば――

葉鶏頭の 十四五本も ありぬべし

この俳句が、ただの身辺諷詠と見えながら絶唱と思えるのは、不治の病床にあった子規の末期の眼にうつった一句と、私たちが知っていればこそではないか。この一句、ただに自然を詠んだものとして理解してもいっこうにかまわないが、子規の闘病という「個人的な動向を」理解することも必要だろう。

ふと、思い出した。
石川 淳は、天明狂歌がそれまでのいかなる狂歌とも性質を異にしているとして、その理由を――かつて狂歌師の狂名は、一般文人の雅号、俳諧師の俳名とおなじく、その名のなかに作者がいた。つまり、その名をもつ存在だった。しかるに、天明の狂歌師は、その名のなかに作者がいない。つまり、無名の人ということになる。
石川 淳は、そのことにふれて、

狂名がふざけていると、ひっぱたいてみても、作者はそこにいない。この簡単な
事実を説明するためには、複雑きわまる天明狂歌師の列伝を本に書かなくてはな
らないだろう。

という。さすがは、石川 淳であった。
この作家が、庄司 肇のいう「作家はその書かれた作品によって評価される」こと、ゆえに「作品以外の個人的な動向など調べるに値しない」という言葉を聞いたら、どんな顔をしてみせるか。 (笑)
おそらく、ちいさな人間と仕事しか見ようとしない同人雑誌作家の低い了見として、あざ笑うだろう。

さて、中村 俊輔はつづけて「しかし文学史上に残る作品を書いた作家でなければ、取り上げるに値しないということはないはずと考えている。」
どんな文学史を見ても、その時代に「評価するに値しない作品しか残さなかった」作家は掃いて捨てるくらいいる。しかし、そうした作家のなかに、自分の心に響く作家がいないともかぎらない。まして、「しかし文学史上に残る作品を書いた作家でなければ、取り上げるに値しないということはない」。
私の想像では――こんな簡単な事実を説明するために、中村 俊輔は、「真杉静枝」という、けっこう複雑な作家の足どりをここまで克明に書かなければならなかったのだろう。
ちなみに――同人雑誌、「朝」は私の友人、竹内 紀吉、宇尾 房子たちがはじめた雑誌。竹内君が亡くなってすでに8年、宇尾さんは、昨年、白玉楼中の人となった。

私は中村 俊輔の「真説 真杉静枝」を、毎号、愛読している。