地方の同人雑誌を主宰するもの書きによくあるタイプだが、残念ながら、庄司さんの文学観はきわめて狭いものだった。
庄司 肇は、坂口 安吾、向田 邦子、榛葉 英治などを対象にしてすぐれた作家論を残している。私は、この庄司 肇に敬意を払っているが、「評価するに値しない作品しか残さなかった真杉静枝を取り上げる」ことに反対する庄司 肇に反対する。
「作家はその書かれた作品によって評価されるものであり、作品以外の個人的な動向を取り上げても、そんなものは調べるに値しない」という考えかたは――じつは、庄司肇の文学的な出発(「文芸首都」で文学修行を始めたこと)と、その志向(いつも文壇小説しか視野になく、最終的には文壇作家として認められること)に深く根ざした考えと見ていいだろう。
庄司 肇は、そのときそのときの文壇の動向にしか関心がなく、「群像」、「文学界」といった文学雑誌をつよく意識し、しかも作家たらんとする確固たる信念さえあれば、いつの日にか文壇人として通用すると信じていた。
ただし、反面では――同人雑誌の主宰者は、けっして作家になれないという、これまた弱気なドグマを信じていた。自分の文学的な営為が、しょせんは「旦那芸」にすぎないと思っていたらしい。
同人雑誌の主宰者であろうとなかろうと、同人雑誌の書き手には、よくこうした人を見かける。文壇的な作家になるということが究極の目標で、そのときそのときの文壇の動向に敏感に反応する。
もう少しはっきりいえば、自分がそうなりたいと思うからには、すでにその資質が自分にそなわっているという考えかたである。
逆にいえば、庄司 肇という「作家はその書かれた作品によって評価される」ことを期待していたのだろう。そして、「作品以外の庄司 肇の個人的な動向は調べられるに値しない」と考えていたことになる。
これはつまらない考えだと思う。
(つづく)