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たとえば、こんな例をあげてみよう。

アントナン・アルトーは、まだ作家になる前のアナイス・ニンにむかって、
「世間ではぼくのことを気ちがいだと思っている。きみもぼくのことを気ちがいだと思っているのか。それで、こわいのか」
といったという。(アナイスの「日記」/1933年6月)
その瞬間、彼の眼によって、アナイスはアルトーの「狂気」を知って、それを愛した。
アナイスはアントナン・アルトーとキスをする。
「アルトーにキスされることは、死へ、狂気へ引き寄せられることだった、とアナイスはいう。
ふたりは、このとき狂おしいセックスに導かれたに違いない。(これは、私の想像だが。)
アルトーは、アナイスにいった。
「きみのなかにぼくの狂気を発見するとは思ってもみなかった」と。

アナイスは「書かれた作品によって評価されるものであり、作品以外のアントナン・アルトーとのプライヴェートな<動向>を取り上げても、そんなものは調べるに値しない」といえるだろうか。
冗談ではない。

ところで、「作品以外の個人的な動向を取り上げても、そんなものは調べるに値しない」のか。そんなことは誰にも断定できないだろう。
私は庄司 肇ふうには考えない。

レイモンド・チャンドラーの小説を読む楽しみのひとつは「フィリップ・マーロー」という探偵の性格的な魅力を知るところにある。30年代のロサンジェルスを知らなくても、チャンドラーの小説に描かれている、けばけばしいハリウッディなstreet sceneの背後に、なぜかもの哀しい、いたましさがひそんでいることに気がつく。そのとき、「フィリップ・マーロー」というキャラクターは、ほんとうのタフネスがどういうものかを教えてくれる。
では、その「フィリップ・マーロー」をアイコンとして、人生の重みやキャラクターの魅力を吹き込み、ほとんど「伝説」に仕立てたレイモンド・チャンドラーとは、いったい何者だったのか。そう思ったとき、「作品以外の個人的な動向を取り上げても、そんなものは調べるに値しない」などとはいえないだろう。
(つづく)