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遊佐君。
戦時中から、「戦後」、そして、21世紀まで、お互いによく長生きしてきた。
きみは今、老いてなお矍鑠として、教え子たちを相手に、きみ自身の編曲したシューベルトや、ヴェルデイの合唱曲を指揮している。そういうきみを見ていると、きみはほんとうの人生の幸福というものを体現しているのではないか、と思う。

私たちは、太平洋戦争の末期に知り合った。
じつに、68年後に、白頭翁として相逢い、すでに三度、蓋を傾けて語りあった。
互いに似たような境遇なので、よく互いの心を知り得て、あらためて、友人を得たことをよろこびあった。

キェルケゴールの言葉を思い出す。

希望は魅力的な少女だが、指の間をすり抜けて行く。回想は美しく成熟した女だ
が、すぐに使いものにならなくなる。反復は一度も飽きることのない最愛の妻で
ある。なぜなら、人は新しいものだけに飽きるからだ。古いものには決して飽
きることはない。それを理解したとき、人は幸福になる。……人生は反復であ
り、それは人生の美点なのだ。    (真喜志 順子訳)

年老いた私はもはや希望など持っていない。魅力的な少女が私の前にあらわれるなど、虚妄の夢にすぎない。回想は美しい熟女にちがいないが、私にとっては、そういう女たちもまた「指の間をすり抜けて行く」だけなのだ。
しかし、反復はさして飽きることのない楽しみといえるだろう。私はかつて一度だけ見た映画を、くり返してDVDで見たり、自分が好きな画家の作品を見るために、わざわざ美術館に足を運んだりする。ただし、キェルケゴールのように、反復を「最愛の妻」などと思ったことはない。

私自身は、長生きできたことをうれしいとは思っていない。むしろ、老年は無間地獄と観ている。さりとて、不幸とも思ってはいないのだが。
いまの私は、一人の悲しい、気むずかしい人物、はたから見て不愉快な、ひとりの孤独な老人、たとえば、あのスガナレルのような老人になり果てている。

しかし、その私が、じつに、70年ちかい歳月をへだててきみに再会できた。
きみに会ったのは、老いさらばえた男ではない。まだ、人生について何も知らないまま、それでもおのれの困難に立ち向かおうとしていた少年なのだ。
いま、私は、きみとともに過ごした少年時代のこと、戦時中のお互いに似かよった状況、戦後のはげしい混乱の話をする。戦争など、もう誰の記憶にも残っていない時代に、他人にとってはおそらく意味のない話ばかりだが、そういう話をしているとき、お互いに幸福なのだ。
むろん、キェルケゴールのいう、反復とはちがうかも知れない。

遊佐君。
今年、私たちに共通の友人だった歌舞伎俳優、岩井 半四郎(仁科 周芳)が亡くなった。彼の死がきっかけできみに再会できた。
仁科の死は、お互いに残された時間がもはや限られていることを知らせてくれたが、私たちが再会できたことを心から感謝している。
また会う日まで、お互いになるべく元気で生きていることにしよう。