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敗戦直後の8月17日、遊佐少年は、日暮里に住んでいた友人、関口 功を訪れた。ここで、偶然、中田 耕治に会う。

 

中田耕治君が僕の”日暮れ”を読んで言った。朔太郎を読みなさい。
それからツァラトゥストラも。さうすればきっと詩の何たるかを知るだろう。
詩人はいつも強くなくってはいけない。
わからない。僕にはわからない。

 

現在の私は――このやりとりをまったくおぼえていない。関口 功は、私と同期で、後年、アメリカのフィスク大学に留学して、黒人文学を研究して、英米文学部の教授になった。

私が、遊佐君に、萩原 朔太郎を読むことをすすめたのは事実だろうが、詩人を志望している若者に対する助言としてはただしかったかどうか。
ただし、同年代の友だちにむかって――朔太郎を読めば「詩の何たるかを知るだろう」などとヌカしている少年が「中田耕治君」だったことに、現在の私はつよい嫌悪をおぼえる。なんとも恥ずかしいかぎりである。詩について何も知らないくせに、詩を語るなどという傲慢さにヘドが出る。

しかし、遊佐 幸章の日記のおかげで、敗戦直後の、あの激動の時代がまざまざとよみがえってきた。

遊佐少年は、混乱をきわめる東京を去って、戦災をうけた仙台に戻ってゆく。
このあと、しばらく「日記」は中断している。

敗戦直前から遊佐君は、キリスト教に接近してゆく。

結果として、遊佐君の「日記」は、1944年12月21日にはじまり、敗戦後まで飛
び飛びに書きつがれて、翌年の1946年2月9日で終わっている。
(つづく)