八月八日、遊佐 幸章は、朝のラジオで、故郷、仙台が空襲されたことを知る。被害状況は伏せられていたが、東京、横浜、さらには川崎、とくに扇町の被害をみれば、仙台の被害も相当深刻なものと推測できた。
少年は、自分のそだった仙台の面影をなつかしみながら、涙を流した。
大学が授業を再開するという。
大学側は、工場が被災したため、ただちに授業を再開すると決定した。
当然ながら、山本 有三科長、吉田 甲子太郎(きねたろう)、大木 直太郎の三先生が、決定したものと思われる。
大学の教務課としては、大学が被爆した場合の消火、書類の避難の要員の確保を目的としたのではないか。大学は、まるで廃墟のように荒れ果てていた。
授業は八月九日から、開始ときまった。在籍者は、二年、一年の残存学生、十数名だったはずである。三年生は、病欠者、二、三名以外は、すべて、出征していた。
遊佐 幸章は「日記」にこの講義の内容、担当者、時間割りを記録している
月 13~18 作文修辞学 吉田 甲子太郎
火 〃 日本文化史 小林 秀雄
水 〃 読書解説 斉藤 正直
木 〃 明治大正/文学概論 吉田 甲子太郎
金 〃 芸術論 豊島 与志雄
土 12:30 西洋文芸思潮史 今 日出海
~14:30
教課時間がひどく長いのは、激化する空襲によって、授業が中断することを考慮したのではないかと思われる。
(つづく)