遊佐 幸章の「日記」のつづき。
やがて彼(中田 耕治)は東京に出てきた。さうしてM中学に入ったのである。この話は明治大学への入学試験の当日の話から始まった。そして久しぶりで再会した僕と中田氏との模様を思ひ出し、彼が僕と一目でわかったのは(僕は彼を忘れていた)中学一年当時の僕が深く印象づけられてゐたからだといふところまで、発展して行ったのである。
これが、昭和十九年(1944年)12月22日のほぼ全文である。
「やがて彼(中田 耕治)は東京に出てきた。」とあるのは、この「日記」を書いた遊佐 幸章自身が、東京に在住していたからで、本来ならば、「やがて彼は東京に去った」と書いてもよかったはずである。「この話は明治大学への入学試験の当日の話から始まった。」とあるのは、遊佐君にとっては中田 耕治との「再会」は、明治大学の入学試験当日に始まっている、という意味だろう。
遊佐君は、翌年(1945年)1月18日、急性肝臓炎にかかって仙台に帰っている。
私は仙台に戻った遊佐君に見舞いの葉書を出していて、その全文が記録されている。これは、とても引用できるようなものではない。
ただ、それによると、私はガリ版で、同人雑誌を出そうとしていたらしく、2月15日には、仙台に送ると知らせている。
遊佐 幸章は、やがて肺浸潤にかかっていることを自覚する。そして、少しづつキリスト教に接近して行く。そして、彼の身辺から、友人たちがぞくぞくと出征して行く。一方連日の空襲で、親族からも戦災の死者が出る。
彼の日記にたんたんと書かれている事実に、私はおもわず嗚咽した。
そして、八月。遊佐少年は再び上京する。
八月七日、工場に行ってみると、学生は誰ひとりいない。工員たちの姿もなかった。だだっ広い工場は、空襲を受けて壊滅したままの姿をさらしていた。焼け跡に異臭がたちこめている。少年は、焼けただれた会社の敷地を歩きまわって、焼跡の敷地に急造されたバラックの事務所にたどり着く。戸板にワラ半紙一枚の掲示がビョウでとめられているだけだった。
文芸科学生はすぐに明大文芸科研究室に行き、掲示を見ること。
少年は、無残に焼亡して瓦礫の山になった工場をあとにして、また、扇町の駅から、川崎に引き返し、京浜線で東京にもどり、さらにお茶の水にとって返した。
暑さと、空腹、疲労に倒れそうになりながら、やっとたどり着いた大学も、職員も、学生の姿はなかった。文科以外の学生は、まだ操業していた軍需工場に就労していたため、職員や学生の姿もなく、大学はまるで廃墟のようだった。
研究室のドアにもワラ半紙の掲示が出ていた。
明大文芸科の学生は、八月八日 午前十時に、当研究室前に集合すべし
吉田 甲子太郎
大木 直太郎
斉藤 正直
この記述は思いがけないことを物語っている。
つまり、私たち明大文科の学生は、敗戦まであと3週間という時点で、動員を解除され、全国すべての大学にさきがけて授業が再開され、その授業はそのまま「戦後」に継続された、ということ。
つまり、私たち、明大文科の学生は、戦後の大混乱のなかで、どこの大学、高専、中学の学生生徒たちよりまっさきに「戦後」の学業をはじめたのではなかったか。
(つづく)