遊佐 幸章の「日記」はつづいている。
その当時、中田氏は、いろいろな事情から孤独であり、又、相当に悩んでゐた。
そこへ僕が現れたのである。僕の歌はとてもきれいで美しかった。そして、彼の荒みかけた心を幾分なりとも慰めた。
中田氏は僕とさうやってゐることに一つの楽しみを得てゐたのである。つまり中田氏は僕をひそかに愛してゐたのださうである。純真だった僕を。
この部分を読んで、私は意外な気はしなかった。当時の私が「遊佐君」を「ひそかに愛してゐた」というのは、なんともテレくさい。思春期の少年にありがちな同性愛的な感情だったはずである。この「日記」を読む人は、同級の美少年にあわい愛情を抱いた思春期の少年を想像するかも知れない。(笑)
だが、私が「相当に悩んでゐた」ことは事実で、今でいう「いじめ」にあっていたこともその原因の一つだった。だから、遊佐君と親しくなったことが、私にとって救いだったとしてもおかしくない。
この「いろいろな事情」には――6歳で亡くなった弟の死によって、家庭にいつも沈鬱な気分がひろがっていたこと、そのため父母のいさかいがつづいていたこと、さらに自分が入試に失敗して、すべり止めに受けた中学に入ったこと、その中学に入ってすぐに、悪質なイジメを経験した。近くに住んでいた二級上の不良少年につきまとわれて、毎日、帰宅するまで、恐怖にかられていた。誰にもいえないことで、これがつづけば、今でいう登校拒否、引きこもりの生徒になっていたかもしれない。
この少年の顔、名前は、今でもおぼえている。
もう一つの悩みは――
現在(2012年)の日本では、かなり多数のサラリーマン、キャリアー・ウーマンが外資系の企業に勤めているだろう。それでも、日本全体の全雇用者の数は、51万人。全体のわずか1パーセントに過ぎない。
戦前、それも1930年代の軍国主義日本で、外資系の企業に勤めていた日本人がどれほど少数だったか。
私の父、昌夫は、外資系の石油会社、「ロイヤル・ダッチ・シェル」に勤めていた。それだけに、父の価値観が子どもの私に反映していたはずだが、世間一般と違って、戦争の予感は私の一家には切実な問題になっていた。
そして、戦前、第二師団が置かれていた仙台が、どれほど封建的で、軍国主義的だったか。戦前の日本の憲兵や警察がどれほど残酷だったか、想像を絶するものがある。
私の家の近くに東北学院に勤務していた英語教師が住んでいた。この人は、ハワイ出身の日系二世だった。だが、ハワイ出身の日系二世という理由だけで、憲兵ににらまれて尋問をうけた。身におぼえのないアメリカのスパイという嫌疑をかけられたという。
この人の妻は妊娠していた。
その教師は、釈放された直後に、市内の八木山の吊り橋から、投身自殺した。その死は新聞にも出なかった。
こういう時代のいまわしさは、幼い私にも影響したと思われる。
だからこそ、私は「遊佐君」が「現れた」ことで救われたにちがいない。
(つづく)