遊佐君が日記に、「毎日、空襲があるので、やりきれない」と書いている。やはり、私と同級だった詩人の進 一男は、短編のなかで、そうした気分を観察している。
これも、ついでに引用しておこう。
その頃……東京ではB29が、翼と胴体を太陽に反射させて、軽い金属音を響かせていた。前の年の十二月に米機の来襲があってから、東京も何時大空襲があるか予想できないことではなかった。(中略)
通勤の電車は何時も工員や動員の学生たちで混んでいた。次第に逼迫の度を増してくる時の流れにつれて、皆にも緊張感が強く漲ってくるのがかんじられるようだった。何時も片隅に群がっている挺身隊の少女たちや動員の女子生徒たちの顔にも、女らしさの蔭に険しい感じが漂ってきているような気がする。
進 一男の記述のおかげで、当時、私たちが働いていた「三菱石油」扇町工場(防諜上の理由から「皇国5974工場」と呼ばれていた)のことを思い出した。遊佐君も私も、おなじ現場で働いていたのである。
私たちの仕事は、きわめて小人数の現場で、ドラム缶を作る部署だった。同級と、一級下の学生を合わせても20数名。
もともと、クラスは50名で、動員された当初は、まだ1小隊単位で動いていたが、学生たちで徴兵猶予の期間を越えた連中は、つぎつぎに招集されて、軍隊に入っていた。
残された私たち20名足らずの学生に、「中島飛行機」の工場が罹災したため、上級生たち10名ばかりが、合流して、やっと30名ばかりの人員がそろった。
そのため、もともとはだだっ広い工場の隅っこで、作業するようになってしまった。
誰しもほとんど沈黙して作業していたから、工場の内部はひどく静かで、その中で、ドラム缶の胴板や天地板を截断する音や、ドラム缶をころがして、別の工場に運ぶ音などが、つよく響いた。
作業場の片隅では、溶接の火花が散った。私の仕事は、溶接工の前に座って、轆轤のような台に乗せた鉄板を、ぐるぐるまわす係だった。
作業衣のポケットに文庫本を隠して相手が溶接をしている間に、2、3行、さっと目を通す。そして、すぐにまた轆轤をまわす。その間、読んだ部分を頭に入れる。
俳句、短歌など、かんたんに読めるものが多かったが、中編でも、ほんの10分程度で読めるのだった。私の軽業めいた読書は、誰も気がつかなかったに違いない。
これも一種の速読法で、私はそんな早業を身につけたのだった。
ときどき、もう中老の、おだやかな工場長が作業のようすを見にきては、責任者と話をして戻って行く。進 一男の短編、「ドラム缶と詩」では、主人公は、工場の外のドラム缶のかげで、本を読んでいるところを見られて、工場長に叱責されるのだが、私は、そんなことはなかった。
(つづく)