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 少年時代に別れたきり、お互いにまったく消息がないまま数十年が過ぎた。ところが、2012年、お互いに共通の知人が亡くなったことから、そのことがきっかけでお互いに再会した。
 こうして私は68年ぶりに友人の遊佐 幸章に再会した。

 いきなりこんなことを書いても、わかりづらいだろうと思う。

 このブログを読んでくれる人々のために、話を整理しよう。

 遊佐君はまず、中学1年のときの同級生だった。美少年で、しかも美声だった。
 私はおなじ中学で同級生になった。たまたま席が近くだったからすぐに仲よしになった。ただし、せっかく親しくなっても、父の転任で私が東京の中学に転校したため、それ以後の交渉はなくなった。

 1944年(昭和19年)、太平洋戦争の戦時特別措置で、中学生の上級学校へのスキップが認められた。私は中学4年を終えて、すぐに明治大学文科文芸科に入った。
 たまたま、遊佐 幸章は、仙台から上京、おなじ明治大学文科に合格した。

 1945年、日ごとに敗色が濃くなっていた時期、私たちは、おなじ工場に動員された。いわゆる勤労動員である。

 東京がアメリカ空軍の空爆をうけて、廃墟と化す寸前の時期、遊佐君と私は、学徒動員で、「三菱石油」扇町工場で労働者として働かされた。

 1945年3月、東京が大空襲をうけ、焼土と化した。遊佐君は両親に呼び戻されて、仙台に戻ったため、私との交際も終わった。もう一度、上京したが、動員先の工場が被災し、あまつさえ遊佐君のご両親も仙台で被災した。

 そして、日本は敗戦を迎える。

 それ以後、じつに68年にわたって、私たちはお互いに音信不通のまま過ごしてきたのだった。かんたんにいえば、そういうことになる。

 今年、仁科 周芳が亡くなった。
 歌舞伎俳優、岩井 半四郎である。私たちは文科文芸科で同期で、当時、私の親しかった仲間だった。
 岩井 半四郎の死を知った遊佐 幸章は、私にハガキで、追悼の思いをつたえてきた。遊佐君も、岩井 半四郎と親しかったからである。
 私は遊佐君が私に対して、仁科追悼をつたえてきたことに驚いた。彼の悲しみがつたわってきたからである。私は、すぐに返事をして、一度、会いたいといってやった。
 こうして、思いがけないことから、私と遊佐君は、少年時代の友人として再会することになった。                   (つづく)