10月下旬、映画女優、シルヴィア・クリステルが亡くなった。亨年60歳。
私は、この女優さんにあまり関心がなかった。しかし、彼女の映画をもう一度見ておこうと思った。一般に映画スターは、ただの固有名詞、たとえば「シルヴィア・クリステル」という女を越えた、一つの存在を私たちに感じさせるからである。
これは、少し説明しなければいけないかも。
シルヴィア・クリステルは、1952年、オランダ生まれの女優。中流の家庭に育ったが、カルヴィン派のきびしい教えを受けた。後年、彼女が、反教会的な映画に出たのも、厳格な宗教教育に対する反発があったと見ていい。
将来の希望は、英語教師になることだったが、家を飛び出して、秘書、ガソリン・スタンドのアルバイトをやっているうちに、スカウトされて、ファッション・モデルになった。
何しろスタイルが抜群だったので、ヨーロッパでも有名なモデルになった。「ミス・TVヨーロッパ・コンテスト」で優勝。1972年、オランダ映画に出るようになった。
彼女が世界的に知られるようになったのは、74年、「エマニエル夫人」に主演したからだった。
シルヴィアに関心がなかった私は、ビデオもDVDももっていなかったので、「エマニエル夫人」のシリーズ最後の作品、「さよなら、エマニエル夫人」を探し出して見ることにした。
インド洋に浮かぶ楽園、セーシェル島に、夫と移住した「エマニエル」は、島で知りあった黒人女性と夫を相手に、コンジュガル・ラヴ(夫婦愛)、レズビアニズムを楽しんだり、観光客とゆきずりの情事をくり返している。その「エマニエル」の前に、撮影のロケ地をさがしている映画監督があらわれる。……
「エマニエル夫人」のシリーズの性的イデオロギーは、女性が自分でのぞむかぎり、どのような性行動、性行為を試みてもまったく不都合ではないというもので、現在ではそれほど珍しいものではない。いや、女性に対する社会的、思想的な理解が大きく変化してきた時期、そして女性自身の経済的な地位の向上がもたらした性的な自由の獲得というプロセスのなかでは、「エマニエル夫人」のシリーズの性的イデオロギーは、ごく標準的なもので、今、映画を見直しても、さして驚くほどのセックス表現はない。
「エマニエル夫人」の性的イデオロギーは、フェリーニの「女の都」や、ゴダールの「女と男のいる舗道」などとはまったくちがった平凡な物である。
私にいわせれば――「エマニエル夫人」が、香港、シャム(タイ)、セーシェル諸島といったエグゾティックな土地で、それまで経験したことのない「性体験」を重ねる、というシチュエーションには――エグゾティシズムという衣裳に覆われているが、じつは白人の女が潜在意識的に抱いている異民族の性行動に対する、つよい関心、それもひそかな優越感に彩られた畏怖が隠されている。
ジェーン・オースティンが「高慢と偏見」で描いたのは、「結婚がもっとも快適に貧困を予防できるシステム」だったとしよう。
少し皮肉にいえば――「エマニエル夫人」は、ヨーロッパ、アメリカではなく、そして、戦後の日本や、さらに後の上海、北京ではなく、後進国のリゾート地域で、まったく隔絶した富裕な人妻だった。つまりは、「結婚がもっとも快適に不倫を実行できるシステム」だからにすぎない。
私は日本で公開された「エマニエル夫人」を、ニューヨークでも見直した。(「ディープ・スロート」や「ビハインド・ア・グリーン・ドア」も見た。ムフフ)
「エマニエル夫人」にも日本版でカットされた部分があった。そのカットはワイセツという理由でカットされながら、私は、そうした部分に、白人の黄色人種、黒人種の女性に対する潜在的な「恐怖」や軽蔑が隠されているのではないか、と思った。
ところで「エマニエル夫人」の成功は、なんといってもシルヴィア・クリステルの起用によると考える。シルヴィア・クリステルには性的な魅力があった。その「性的」という意味で、映画史的に見て、「エマニエル夫人」の出現は「春の調べ」のヘディ・キースラー(後年のヘディ・ラマール)の登場と似ていると思う。
「ディープ・スロート」が、その後のポルノ映画の最初のマイルストーンだったという意味では、「エマニエル夫人」は「春の調べ」のようなプライオリティーをもってはいないだろう。
だが、ヘディ・キースラーがもはや誰の関心も惹かないが、シルヴィア・クリステルは、まだしばらくは映画史に残るだろう。そして、もう一度死ぬことになる。わずかな例外はあっても美しい女優たちもまた、二度死ぬのだ。
シルヴィア・クリステル。この女優さんの代表作は、むしろ、オランダ映画なのだが、残念なことに私たちは見る機会がない。