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頭脳の老化はふせぎようがない。
それでも、少しは、脳の活性化を、と考えて、最近の私は、昔見た映画を、もう一度見直すようにしている。
これが、結構おもしろい。

もう一つ。
昔書いた自分の原稿を、もう一度読み直してみる。
これは、どうにも恥ずかしい。

 

今年の夏は、ほんとうに暑い日々がつづいた。さすがに仕事をする気になれず、ぼんやり本ばかり読んで過ごした。

あるエッセイの書き出し。
1990年9月30日の「日経」に、私は「いまはもう秋」というエッセイを書いているのだが、20年も前に、私は今とおなじことを書いている!

なんとも恥ずかしいかぎり。

ところで、このエッセイで、私は、ある三行詩を訳している。

 

ある日、おもしろいものを見つけた。
ロラン・バルトが、芭蕉の句、「名月や池をめぐりてよもすがら」を読んで作った三行詩である。前に読んだときは、うっかりして、そんな詩があることに気がつかなかった。
フランス語もろくに読めないのだが、自己流で訳してみた。むろん、ご愛嬌である。

この夏の港の朝の晴れゆきて去りにしひとを思う我かも夏の朝はただ晴れるにけり無為にして今は去りにし人を思うもこの夏の朝晴れにけりうら恋うる人と渚にいくみ寝しかも

バルトは俳句のつもりで詠んだらしいが、フランス語の明晰性がどうしても十七字では表現できなかったので、思いきって短歌にしてしまった。

 

これは失恋の歌なのだろう。去って行った恋人への思いが、こうした短詩形に凝縮する。日本人なら誰しも経験があるかも知れない。
夏の朝が美しく晴れわたっているのに、ぼんやり「恋人」のことを思いつづけている。ここには、やるせない内面の傷みがあふれている。
バルト流にいえば、はっきりした対象が頭になければ、恋愛を語ることも、失恋の傷みを語ることも不可能なのだ。

当時、私もまたあてどもない思いがあって、こんなことを書いていたのかも知れない。
今の私はこのエッセイを読んで、かなり違うことを考えている。