もの書きがスランプになったらどうするか。
ある日、「近代文学」の同人たちの間で、そんな話題が出た。たぶん、佐々木 基一さんあたりが口火を切ったのだろう。戦後すぐの1946年、たぶん4月頃。
このとき、同席したのは、荒 正人、埴谷 雄高、山室 静、本多 秋五、平野 謙さんたちだった。
私は駆け出しもいいところで、いつも、「近代文学」の編集室に遊びに行って、隅っこで先輩の皆さんの話を聞いていた。ずっと、年下の私を相手に、この人たちがいろいろなことを話してくれたことを、いまの私は心から感謝している。
私は「近代文学」以外からの原稿の執筆依頼はなかった。つまり、原稿が書けない悩みなど経験したこともなかった。
このとき、それぞれの人がどう答えたか、もう忘れてしまった。しかし、埴谷 雄高のことばは心に残った。
どうしても原稿が書けないときは、原稿用紙にむかって、「原稿が書けない」と書けばよい、といった。埴谷 雄高の発言に、みんなが苦笑したが、埴谷さんの説には抜群の説得力があった。
ずっと後年になって、「シャイニング」という映画を見た。冬の季節、誰も客のいない空ホテルの一室で、「作家」が毎日、長編のタイプを打ち続けている。この「作家」をジャック・ニコルソンがやっていた。
スタンリー・キュブリックの演出は、あまりこわくなかったが、スランプに陥った「作家」の狂気が描かれている。当時、「山の上ホテル」にカンヅメになって、原稿を書きつづけていたので、この映画に出てくる作家のスランプがタイプされた「原稿」からわかるシーンはこわかったなあ。(笑)