まったく偶然に、二冊の本を読んだ。それぞれ、まったく関係のない本なのだが。
サリー・ホッグズヘッド著、「魅きよせるブランドをつくる7つの条件」(PIE刊)を読んだ。真喜志 順子の訳がいい。
テーマは――私たちが、なぜ、これこれのブランドに惹かれたり、あるタレントに魅せられてしまうのか。
逆に、そうした背景に何が潜んでいるのか。
冒頭に、「オーガズム――まず、セックスの話から始めましょう」という章があって、さっそく読みはじめてしまった。
「人は生まれながらにして、異性からの特定のシグナルに魅力を感じるようにできているだけでなく、異性を魅了する術(すべ)も備えています」という。
なにしろ、私は「異性を魅了する術(すべ)も備えて」いないので失格だなあ。(笑)
魅力的な人びとは、私たちの心を奪い、強烈な渦の中に巻き込む。
心理学者のミハイ・チクセントミハイは――オーガズミックな経験を「フロー」と呼ぶ。「自分が現在おこなっていることに完全に没頭している時の精神状態」が、その「フロー」であって、特徴としては、「集中力が増す感覚」という。
「ほかのことがどうでもよくなってしまうほど、ある状態に没頭する状態、その経験はきわめて楽しいものなので、それをやりたいがために、人はどんなに大きな犠牲をはらってもやろうとする」と、説明している。
私は、ミハイ・チクセントミハイ先生の著作を知らない。この本で、はじめて知ったので、この説明に納得した。ただ、生理現象としての「オーガズミック」はしゃっくりに似ていると考えている。
魅力的なイメージや、魅力的な人々は、私たちの心を奪い、強烈な渦の中に巻き込む力をもっています。チクセントミハイは、これをフローの中毒性と呼び、「他のことがどうでも良くなってしまうほど、ある活動に没頭してしまう状態、その経験自体はきわめて楽しいものなので、それをやりたいがために、どんなに大きな犠牲を払ってでもやろうとする」と説明しています。
ほんとにそうだよ。私は、チクセントミハイ先生を存じあげないけれど、自分のまずしい経験からも、こうした状態は推測できる。
芝居の「演技」なども、そういうものかも知れない。
私は、評伝、「ルイ・ジュヴェ」で、そうしたエクスタシイを説明しようと思ったのだった。自分では、どうにもうまく描けなかつたのだが――オペラ歌手のカーティア・リッチャレッリのことばを見つけた。(「ルイ・ジュヴェ」第六部・第七章)
1989年、リッチャレッリはコヴェント・ガーデンで、プラシド・ドミンゴを相手に「オテロ」を演じた。
稽古中から最高の瞬間が訪れたという。Sternstunden だった。
「こういう瞬間はきわめてまれなのよ」とリッチャレッリは語っている。「ドイツ人がいうSternstunden で、芸術家の生涯でも、二、三度しか訪れてこないわ」
余談だが、私は、わざわざ、Sternstundenを、ドイツ語のまま引用したのだが、校正者は「好機」と訳し直してきた。冗談ではない。私は、すぐに、これを「たまゆらのいのちの極み」と訳した。
最近の私は――何かを見れば、すぐに何かを思い出す。これもその一例。