今回、「レーピン展」で私が関心をもった一枚。
「エレオノーラ・ドゥーゼの肖像」。(1901年)
110センチ×140センチ。大きなキャンバスに、木炭でデッサンをとっただけ。未完成のまま、放置したらしい。
この肖像画は、1891年3月から4月、サンクト・ペテルブルグで客演したときに描かれたもの、という。
カタログの解説によれば――
「尊大さを感じさせるほど、自信にみちた女優の眼差し、表情、手の位置、全体の姿勢などを木炭の黒だけで巧みに描いている」
という。
私は、「尊大さを感じさせるほど、自信にみちた女優の眼差し」というより、どこか放心したように、こちらを見ている女優の孤独を感じる。ドゥーゼは、レーピンのことなど知るよしもなかったにちがいない。遠く、サンクト・ペテルブルグまでやってきて、スケッチをとる画家などに関心をふり向ける余裕もなかったかも知れない。
椅子の肘にかけた右手と、おなじように投げ出した左手の大きさの狂い、そして、からだに置いたショールの位置、不安定な下半身。
「全体の姿勢を木炭の黒だけで巧みに描いている」とは思えない。レーピンは、なぜか、一瞬のうちに、お互いの立っている位置、姿勢、そして亀裂のようなものを感じとったのではないか。そんな気がする。
ついでに書いておこう。劇作家のチェーホフが、エレオノーラのペテルスブルグ公演を見ている。チェーホフは、「私は、かつて一度たりともこれほどの女優を見たことがない」と書いている。
この絵が完成しなかったのは残念としかいいようがない。しかし、デッサンとして、この「レーピン展」で私がいちばん気に入った一枚。
カタログの解説には――
エレオノーラ・ドゥーゼ(1858-1924)は4歳から劇団にくわわり、サラ・ベルナール(1844-1921)の当たり役をイタリア語で演じて有名になった。
こんな安直な解説はないだろう。
もう少し勉強して書くべきだったね。
エレオノーラ・ドゥーゼは、19世紀末、「あらゆる時代に生きているみごとな女神」と呼ばれ、「芸術の娘」(フィーリア・デラルテ)とうたわれた女優。
1895年、ロンドンで、サラ・ベルナールを相手に、ズーデルマンの「家」で競演した。バーナード・ショーは、サラの絢爛たる演技を見た翌々日、エレオノーラの静謐な演技を見た。その優劣を判断することはできないと書いている。
晩年のエレオノーラ・ドゥーゼは、愛人のガブリエーレ・ダヌンツィオと別れた。病身、老残の身だったが、パリで再起をはかった。その後、アメリカ巡業に出て、ピッツバーグで客死している。
若き日のマリリン・モンローは、ドゥーゼの伝記を読んで、女優を志したといってよい。後年、マリリンは、エレオノーラ・ドゥーゼの遺品を買いとった。マリリンの死後、演出家のリー・ストラスバーグが、マリリンの遺志をついで、これをコロンビア大学に寄贈している。またまた、余計なことを思い出したね。
「レーピン展」で、エレオノーラ・ドゥーゼに会えたことはうれしかった。帰りに、絵ハガキでも買いたいと思ったが、そんなものがあるはずもなかった。
ほとんど、誰も気にとめないだろう。
仕方がないので、カタログを買ってきたが、重くて閉口した。
外国の美術館のカタログのように、もっとコンパクトで、要領(容量)のいい、値段も安いカタログが作れないものか。学芸員の原稿料かせぎか、要領の悪い学術論文のような「解説」を読まされるのはうんざりする。