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残暑のきびしい渋谷に、「レーピン展」を見に行った。
トレチャコフ美術館収蔵の作品展である。

じつは、モスクワに行ったときレーピンを見ている。当時のソヴィエトで、いろいろなものを見たが、現代美術の作品はまったくろくなものがなかった。
たとえば、「ドン河で督戦するブレジネフ少佐」と題する巨大な絵が壁面いっぱいに飾られていた。なにしろ、ルーヴルの「ナポレオン戴冠」に匹敵する大きさで、ドイツ軍の砲火の前に身をさらして、赤軍兵士を激励する若い指導者が描かれている。この絵を見たとき虫酸が走った。これが社会主義リアリズムなのか。

ロシアで心に残ったのは、「エルミタージュ」で見つけたたった一枚、フィレンツェの「コジモ大公」や、ゴーギャン、ピカソから、ヴァン・ドンゲンまでのフランスの美術コレクションばかりで、ロシア美術の作品としては、わずかにクラムスコーイ、レーピンの数点だけだった。

トレチャコフは富豪で、レーピンの友人だった。
1890年、トルストイにあてて、

絵彩なり、ポートレート、習作なり、いずれにせよ最高の位置にあるのは、レーピンでしょう。

と書いた。
今回の「レーピン展」で、私は「トルストイの肖像」を見た。
ロシアでは、かつてこれほどみごとな肖像画は書かれたことがない。はじめてこの絵を見たとき、私はそんなことを考えたものだった。
たしかに、「トルストイの肖像」はすばらしいものだったが、今回、「アクサーコフ」や「コロレンコ」を見ることができた。
ロシア文学が専門ではないのだが、それでもアクサーコフやコロレンコの作品は読んだ。だから、あらためて、ロシアの文学者たちに親しみと敬意を持った。
ウラジーミル・スターソフの肖像もすばらしいものだったが、残念ながら、私はこの人の芸術論をしらない。
ワシーリー・レーピンの肖像。画家の弟で、音楽家。私は、赤いカフタンを着たこの若い芸術家が、マルクス兄弟のチコにそっくりなので、おかしかった。解説によれば、絵のモデルになって描かれているあいだ、長時間じっとすわっていられない「落ち着きのない」性格だったという。そのせいで私はチコ・マルクスを連想したのかも。

母のタチャーナのデッサン。
私は、ガートリュード・スタインかと思った。服装といい、容貌といい、ガートリュード・スタインそっくり。

私の美術鑑賞は、たいていこんなものなのだ。(笑)