戦後、最初に公開された映画、「春の序曲」でもっとも驚いたシーンがあった。
誰もいない大きな室内に、パット・オブライエンが入ってくる。
ふとめのシガー(葉巻)を口にくわえている。
シガーの煙を大きく吸い込む。
口をまるく開くと、力をこめてその煙をいっきに吐き出す。
どうどうたる体格の男が、両肺いっぱいに吸い込んだシガーの煙を、ブハーッと吐き出して、大きな部屋の右から左、飛距離にして7メートルほども、綺麗な輪のかたちをくずさずに飛ばしてみせている。
カメラの位置は固定で、その輪ッカの動きを全部とらえている。
口から吐き出された煙は、はじめはちいさな輪として、画面の右側から左に向かってゆっくり移動して行く。
しかし、途中で形がまったく崩れない。
そのまま煙はゆっくり移動するが、空気の抵抗で少しづつ形が大きくなってゆく。
ふつうのスモーカーも口に含んだ煙で輪ッカをつくる程度の芸当はできるだろう。
だが、パット・オブライエンがやってみせたのは、普通サイズのシガレットではできる輪ッカではなかった。
肺活量がちがう。
さすがに、5メートルを越えたあたりから、煙のかたちが崩れはじめ、輪のサイズが大きくなってくる。煙自体が、モヤーッとしてくるが、それでもまだ移動をつづける。
観客はこの「芸」に声をのんでしずまり返っていた。
このシーンは、映画、「春の序曲」のストーリーには無関係で、パット・オブライエンの「芸」として撮影されたものらしい。
その後、これとおなじ「芸」はバーレスク、ヴァラエティー、寄席、見世物の舞台はもとより、映画でも見たことはない。観客がいれば、空気の対流で、これほどの距離をタバコの煙が完全な輪ッカのまま移動することはあり得ない。
私の「戦後」は、タバコの輪ッカからはじまった。(笑)