私の見るところ、松窓の句には、とてもいい句と、農民に通有の卑猥な表現が混在している。
注釈ぬきで、いくつか並べてみる。
その中に 玉虫もいる 涼み舟
見るもうたてし 女房の朝小便
板の間に ひったり ねまた 裸臀
炬燵の大指 飛島の 蛸の穴
世を逃げて見ても 陰茎と耳ふたつ
両股は すったくれるに 重へこ
睾丸か なからへ おれも 立ちしんこ
人 二十歳(はたち)頃や 女房も 月の夜も
やれ待て 女房 おれも往生だ
江戸時代、それも末期になると、社会的、心理的な制約が崩れ、浮世絵、春本(ポーノグラフィー)などの性的な表現が、ひろく受け入れられるようになった。それに、北国の農村の陰湿な風土で、性的な表現が直截的なものになるのは当然かも知れない。
私は、川柳や、前句付けの卑猥な表現を少しも不快に思わない。何かにつけて卑猥な表現をとりたかった作者の心情、ひいては農村の疲弊を思うからである。
あえていえば、江戸の人たちは、もっともありふれたことにおいて私たちよりすぐれている。もっともめずらしいことにおいて、私たちは、ほんのわずか観察力をましたかも知れないが。
松窓の句に見られる卑猥な表現に、農民のあけっぴろげな助平を見るか。それとも、いじましさを見るか。
かたや浮世絵の洗練があって、もう一方に、松窓の重苦しい現実がある。
(つづく)