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 1945年8月15日、戦争が終わった。私は17歳。

 東京は焼野原で、さまざまな機能が麻痺していた。大学の授業も再開していなかった。焼け残った大学に行っても、ガランとしているだけで、ほとんど人影もなかった。
 召集されて戦地に行った学生たちの安否もわからない。戦死、戦災死した学生も多かったが、ほかに生き残った学生もいた。ただし、いつ復員してくるかわからない。
 私は毎日のように、大学に行った。ほかに何もすることがなかった。友人の覚正 定夫(後年、左翼の映画評論家になる。)といっしょに、誰もいない教室で時間をつぶしていると、思いがけないことに、汚れた軍服の学生が戻ってくることがあった。
 内地の軍隊から復員して、そのまままっすぐ大学めざして戻ってくるのだった。

 ある日、私の親友だった木村 利春が戻ってきた。階級は、陸軍中尉。いわゆるポツダム中尉だった。日本が連合国のポツダム宣言を受諾して、敗戦国になったが、そのとき全軍の兵士は、一階級、昇進したからである。木村は、召集されて、すぐに少尉に任官したが、敗戦で、名目だけ中尉になったのだった。

 「おう、帰ってきたか」
 「うん」
 「どこだ?」
 どこの戦線に配属されていたのか、という意味だった。
 「シナだよ」

 それだけの会話だが、それ以上、何もいうことがなかった。
 彼は、中国戦線から復員してまっすぐに大学の教室にやってきたのだった。驚いたことに、身長が低くなっていた。

 廃墟のようにひとけのない大学に戻ってきて、私たちを見ると、疲れきった顔が輝いていた。戦争のことは、ほとんど話さなかった。
 敗戦前の漢口から上海まで、ひたすら歩き続けたという。過酷な体験だった筈である。あんまり歩いたので、身長が2センチも低くなったらしい。
 私たちは、共通の友人の消息を語りあった。

 「元気でな」
 「おう、ありがとう」

 出征したときと、おなじ言葉をかわしただけで敗残兵は去って行った。出征したときは、お互いに二度と会うことがないと覚悟していた。それはお互いにはじめからわかりあっている。彼が出征したときも、復員してきたときも、おなじ言葉をかわしたのだった。
 敗戦直後の大学に戻ってきた木村の胸に何が去来していたのか。戦争が終わって、これから日本はどうなって行くのかわからない。そんな不安が胸をかすめていたのか。おそらく、そうではないだろう。
 お互いに暇な学生どうしだったら、のんびりした会話をするところだが、戦争が終わって自分の古巣に戻ってみると、教授もいないし、まるで浮浪児のような別の科の学生がうろついている。出征したときと、あまりに違ってしまった環境にただ驚いていたのだろう。
 木村は、故郷の岩手県に戻って、しばらく静養したが、翌年(1946年)の3月頃に東京に出てきた。このとき、故郷で書いた小説を私に読ませた。驚いたことに、戦争のことなどまったく関係のない、ある少女への思いをつづった少女小説のような作品だった。

 この年の晩春、木村 利春は肺結核のために亡くなった。享年、23歳。

 私は、この頃から、新聞に原稿を書くようになっていた。