旧ソヴィエトの作家同盟と、日本の「文芸家協会」は、お互いに対等の立場で、毎年、3名の作家、または評論家が、お互いの国を訪問する協定をむすんでいた。
たまたま私は、高杉 一郎、畑山 博といっしょに、ロシアに行ったのだった。
モスクワに着いて、翌日、私たちは、作家同盟の理事長に会った。
この人物は文学者というより、文学官僚といっていい人物だった。
作家同盟の応接室で、正式に挨拶を受けたのだが、夕方から延々2時間以上も一方的に講話を聞かされた。その内容は、いかにも公式的な、社会主義リアリズム理論で、私はうんざりした。彼の話しかたも退屈きわまりないものだった。
同席した通訳のエレーナ・レジナさんが、逐一、訳してくれた。
私は薄暗くなってきた応接間のソファにすわったまま、これまで何カ国の作家や詩人たちが、おなじ人物におなじ社会主義リアリズム入門のご講義を聞かされたのだろう、と思った。
それと同時に、現実にロシアの人々は、まるでドストエフスキーの登場人物のようにやたらに長く話をつづけるのか、と思った。
ドストエフスキーの登場人物は、それこそ何ページにもわたって話をつづける。まるでモノローグのような長広舌をふるう。
こうしたモノローグは、ドストエフスキーが登場人物の哲学的な論理を無理なく展開する技法だと思ってきた。
ところが、このときの話で、ロシアの知識人は、会話というより、自説の開陳だけに終始するらしい、と思ったことだった。
私は、相手が私の経歴などをくわしく調べているらしいことがわかった。私は、ヘンリー・ミラーをはじめ、クロンハウゼンの「ポーノグラフィー」や、いろいろな作家、評論家がポーノグラフィーを論じた著作などを訳していたが、その理事長の話の後半は、もっぱらポーノグラフィーについての見解を述べた。ポーノグラフィーが文学と無関係、かつ無価値であり、反革命思想に汚染されたものであるか、ようするにポーノグラフィーの反動性を説いたのだった。
もし、私がロシアでものを書いていたら、たちまち逮捕されたにちがいない。
何か希望があるか、と聞かれた。
私は、作家のフェージン、評論家のユーリー・トゥイニャーノフに会いたいといった。
理事長は承知したと答えた。しかし、これは、そのままにぎりつぶされた。
今でも私は、崩壊前のソヴィエトに行けたことをありがたく思っている。旅行自体は、制限の多いものだったが、いくらかでもソヴィエトの実態を見ることができたから。
どこに行っても、スターリンの独裁下で、逮捕され、処刑された人びとのことが頭から離れなかった。ひとたび逮捕されたが最後、その人物は、もはや「生きている」人間ではなくなる。裁判もない。当然ながら、弁護士がつくわけでもない。検察は、逮捕の理由もあきらかにしない。しかも、逮捕されたら有罪しか待っていない。
逮捕者が出た家族も、おちおちしていられない。いずれは、監視の目が光り、最悪の事態を覚悟しなければならなくなる。残った家族も逮捕され、かならずおなじ道をたどるからだ。
ソヴィエト崩壊後のロシアで、まっさきにポーノグラフィーが解禁されたとき、私は、あの文学官僚はどうなったのだろう、と思った。
あれだけ弁舌さわやかに、ソヴィエト文学の優秀性について、お説教をたれた人物だから、激動の時代もうまく立ち廻って、その後の文壇でもそれなりの位置におさまったのではないか。そんな気がする。
電話の話から、ひどく脱線してしまったが、ま、いいか。