いつか、私は書いたのだった。「公開されたとき、さして評判にならなかった映画、あるいはどうしようもなく程度の低い映画でも、それを見て思いがけない「発見」をした」場合、そんなことも書いてみたい、と。
アランがいっていたが、芝居の見巧者になるには、恐らく名優になるくらいの時間がかかる、という。映画だっておなじことだ。映画のいい観客になるには、それなりに人生の哀歓が身についてこそ、よりよく映画を楽しむことができるのだから。
ミッシェル・ウィリアムズは、とてもよくやっている。「マリリン」の緊張、撮影への不安、そして夫の「ミラー」がロンドンから去ったあとの悩み、実際の「マリリン」もそうだったのかと思うほど、自然に演じている。
この時期のマリリンは、「フォックス」との対立、アーサー・ミラーがマッカーシーの「非米委員会」に召還されて、追求されていたし、マリリン自身が、悪辣な上院議員に脅迫されていた。世界のジャーナリズムの関心が集中するなかでの、ロンドンへの新婚旅行と、ただでさえ狂瀾怒濤の女優人生のなかで、自分のプロダクションの最初の映画、「王子と踊り子」の撮影にとりかかった。
もともと現実生活への適応性が欠けていたマリリンが、ミルトン・グリーンや、ポーラ・ストラスバーグにすがりつくようになったのは、当然だろう。映画も、そのあたりの人間関係は、いちおう描いている。
しかし、体力や精神力の限界から、マリリンは心身両面で消耗しているだけに見える。
ただし、そのあたりをミッシェル・ウィリアムズは、よくとらえていた。(ミッシェルは、「ゴールデン・グローヴ」最優秀女優賞を受けている。)
原作者のいう「恋」が「時空を超えた、しかし、リアルなエピソード」という認識、ないし、知覚は監督のサイモン・カーティス自身、考えなかったろう。しかし、ミッシェル・ウィリアムズは、(できるかぎり)「夢物語」を見せようとしていた。
「7日間の恋」のマリリン、つまり、ミッシェル・ウィリアムズを見ていて、ある作家のことばを思い出した。
感受性にとみ、ゆかしく、熱烈で、つまり俗にいうロマネスクで、恋人とふたりきりで、真夜中にも人里離れた森をさまようにすぎない幸福を王者の幸福にもまさると考える魂、こうした魂をかいま見ると、私は一晩じゅう夢想にふけるのだ。
スタンダール。
(つづく)